会議というものは、本来「何かを決めるための場」だったはずだ。

けれど実際には、そこまで大きな決断が下されることは少ない。

 むしろ、みんなで集まり、話し合いの形を整えることで、「ちゃんと議論しました」という安心を共有する場になっていることが多い。

 誰かが強く主張するわけでもなく、かといって明確に反対する人もいない。

 それぞれが相手の気持ちを察しようとし、
場の空気を乱さないように言葉を選ぶ。

 その丁寧さは美徳でもあるのだけれど、ときどき、会話がふわりと宙に浮いたまま着地しないことがある。

 昔話に、こんなやり取りがある。

 坊主が難しい問いを投げかけ、相手はまったく別の方向から真面目に答えてしまう。

 どちらも誠実なのに、会話は噛み合わない。

 それでも、どちらも相手を否定しようとはしない。ただ、すれ違いながらも問答は続いていく。

 そんな、どこか愛嬌のあるやり取りだ。

 現代の会議も、どこかその雰囲気をまとっている。

「こういう方向でよろしいでしょうか」

「まあ、そのような理解で」

そんなやわらかな言葉が行き交い、
誰も傷つかないように、そっと結論が形づくられていく。

 もし本当に議決が目的なら、提案書を一枚ずつ持ち寄り、AIの議長が淡々と最適解をまとめる方が、ずっとシンプルなのかもしれない。

 けれど、私たちはあえて遠回りをする。

 その遠回りの中に、人の気配や、場の温度や、言葉にならない気遣いがあるからだ。

会議室のすれ違い問答は、
決して無駄ではないのかもしれない。
噛み合わないようでいて、
そのすれ違いの中に、
人と人が一緒にいるという柔らかな事実が、
そっと息づいている。