もう昔話だが、夜の10時を過ぎる頃になると、テレビにはいつも穏やかな声を持つ男が現れていた。
ハーバード出身、流暢な英語、爽やかな佇まい。そして、誰も傷つけない柔らかなコメント。
その姿に、どこか安心を覚えた人は少なくなかったはずだ。
完璧すぎるものには不自然さがつきまとう。
それでも、あの落ち着いた声に耳を傾けると、
そんな違和感さえも心地よく溶けていった。
彼の存在が、日々のざわつきを静かに整えてくれるようだった。
しかしある日、彼の肩書きのいくつかが事実ではなかったと知る。
報道は淡々としていたが、その内容は、彼を信じていた人ほど胸に重く響いた。
ただ、そこで終わらせるには惜しいものがあった。
虚像を求めたのは彼だけではない。
むしろ、私たち自身が、あの落ち着いた語り口や、誠実さを感じさせる佇まいに救われていたのだと思う。
そして近年、彼の復活を求める声が静かに増えている。
あれほど叩かれたはずの男に、もう一度チャンスを、と願う人がいる。
その理由のひとつは、彼の言葉は、
“誰も傷つけなかった”という事実かもしれない。
もちろん、彼は虚構の経歴を信じた者を傷つけた。
だが、その虚構を求め者もいた。
しかし、彼の言葉は誰かを貶めるために使われたわけではなく、
むしろ、日々の不安や苛立ちを和らげる方向に働いていた。
だからこそ、
「もう一度あの声を聞きたい」という思いが、
静かに、しかし確かに広がっているのだろう。
声だけは、本物だった。
そして、その声に惹かれた私たちの気持ちも、
また本物だったと信じたい。
虚像が剥がれ落ちたあとに残った“声”という最も素朴な部分。
そこにこそ、彼の本質があったのではないか。
私たちは今、
完璧な肩書きでも、
飾られた経歴でもなく、
ただ、あの声の奥にあった温度を
もう一度確かめたいだけなのかもしれない。