人の世には、古くより「ハレ」と「ケ」という境があった。
祝いの日には心を晴らし、日常には静かに身を整える。
その節度こそが、暮らしを調え、心を守ってきたのである。

近ごろ、多様性という言葉が盛んに唱えられるようになった。
しかし、その名の下に、境界を乱し、周囲の静けさを奪う振る舞いも耳にする。
女子トイレや女湯に、心は女性であると称する男性が侵入し、
混乱を招く事件があったという。

それは果たして、多様性と呼べるものなのだろうか。
多様性とは、本来、違いを押しつけることではなく、
互いの領域を侵さぬための、静かな線引きを尊ぶ姿勢であったはずだ。

ハレとケが混ざり合えば、どちらも意味を失うように、
境界を失った多様性は、ただの混沌となる。
自己の正義を振りかざし、他者の不安や恐れを顧みぬ行為は、
多様性とは名ばかりで、その本質から遠く離れている。

本来の多様性とは、
「あなたはあなたのままでよい、私は私のままでよい」
という、静かな承認であった。
近づきすぎず、離れすぎず、
互いの生活圏をそっと守り合う距離の美学であった。

節度とは、誰かを縛るためのものではなく、
誰もが安心して息をつける場所を保つための知恵である。
その知恵を失えば、社会は音もなく軋み始める。

多様性とは、境界を消すことではなく、
境界の存在を認めたうえで、
その向こう側にいる誰かを静かに尊ぶことであった。

人は、違いの中で生きるのではなく、
違いをそっと置いておける余白の中でこそ、生きられるのだろう。