戦後の日本には、二つの大きな波があった。
団塊世代、そして団塊ジュニア。
同じ「人口の山」と呼ばれながら、その出発点は驚くほど違っていた。
団塊世代が生まれた1947年。
乳児死亡率は1,000人に対して76.7人。
生まれ落ちた瞬間から、生き残ることが競争だった。
戦後の混乱、整わぬ医療、足りない栄養。
彼らは、息をすることすら“試練”の時代に育った。
一方、私たち団塊ジュニアが生まれた1970年代。
乳児死亡率は1.08人。
生存は、ほぼ約束されていた。
だが、その安堵は長く続かない。
学校へ上がった瞬間、私たちは別の競争へと放り込まれた。
教室は満員。
偏差値がすべてを決める時代。
夜の塾の灯りは、まるで街のどこかで鳴り続けるサイレンのように、
「遅れるな」と私たちを急かし続けた。
団塊世代が生存競争をくぐり抜けたように、
団塊ジュニアは“教育競争”の渦中にいた。
もし、バブルが崩れなければ。
もし、景気がもう少しだけ持ちこたえていれば。
私たちの就職戦線は、団塊世代と似た風景になっていたのかもしれない。
だが現実は、最悪のタイミングで扉が閉じた。
企業は採用を絞り、求人は消え、
最大人口の世代が、最も狭い門に押し込まれた。
これは努力の問題ではない。
構造の問題だ。
そして、運の問題でもあった。
当時の日本には、今のような“キャリア形成”という概念はなかった。
キャリアとは、最初に入った会社の中で積み上げるもの。
転職は待遇の下落を意味し、
「キャリアアップ転職」など影も形もなかった。
昭和の大企業には派閥があり、工場には工場閥があり、
労組と会社は対立しながらも、どこかで手を握り合っていた。
団塊世代はその中心で、社内政治の波を泳ぎ切った。
だが、その仕組みは、私たち団塊ジュニアには継承されなかった。
残されたのは、
不安定な雇用、伸びない所得、薄い貯蓄。
そして、これから押し寄せる親の介護と、自身の老後という現実だ。
団塊世代が「良かれ」と思って残した仕組みは、
時代の変化の中で効力を失い、
私たちにはもう届かない。
むしろ時代が変化し、団塊世代の価値があると感じていたものは、団塊ジュニアには負債、もしくは瓦礫でしかなかった。
かつての成功モデルは、静かに崩れ落ち、
その跡には夏草だけが揺れている。
芭蕉の一句が、今ほど胸に響く時代はない。
夏草や 兵どもが 夢の跡。
あの時代の栄華も、努力も、
今はただ、風に揺れる草の下に眠っている。