創造
キース・ジャレット「ソロ・コンサート」のライナーノーツにキースが語った言葉が引用されていた。
「私は『芸術』を信奉しない男だ。その意味で私はアーティストではない。
私は私が生まれる前に存在した音楽はある程度信ずる。その意味で多分私はミュージシャンとはいえない。
私は人生を信じない。
しかし、この問題を本当に深く考えた人なら同じ結論に達するであろう。
私は自分で創造できる男だとは思わない。しかし、創造への道は目指しているつもりである。
私は創造を信ずる。
事実このアルバムは、私という媒体を通じて、創造の神から届けられたものである。
なし得る限りの純度を保ったつもりである。
こうした作業をした私は何と呼ばれるべきであろうか。
創造の神が何と呼んだか、私はおぼえていないのである。」
まったく同じようなことを、
横尾忠則や、ウイリアム・M・ヴォーリズも言っていたのを思い出した。
ここで言われている神とはキリストやブッダとかそういう類ではない。
優れたものを生み出す人々は、
ある意味では自我を消し去り、
神の手となり足となりて何かを生み出すのだ。
確かに、
何かを創るとき、創ってやろう!という気持ちでは何もいいものができない。
「何かにとりつかれたように」という表現が一番当てはまるのだけど、
そういうときは自分が想像だにしえなかったものが生み出されるときが多々ある。
音楽を演奏するときも、
考えてつくりだしたものよりも即興で体が動くがままに演奏したほうが、すごいグルーブが生まれるときがある。
多分、キースや横尾さんやヴォーリズの言っていることはこういうことなのだろう。
アインシュタインが重要な理論をひらめいたとき、
彼はうつらうつらと白昼夢のような半覚醒状態だったという。
この自我と無我の境目あたりで、贈り物をもらった(もしくは、授けられた)。
人間はふだんは自我が強いけれど、
こういった瞬間などは新しいひらめきやアイデアやインスピレーションが、降りて来るのだろうな。
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