夏は開放
もし、あなたが何かしらの表現者であれば主に何からインスピレーションを得るのだろうか?
僕の場合、自分自身のことはよくわからないけど、
自然から得るものが主な比重を占めていると思う。
夏、気持ちは外部へと向かう。
夏は家にはいられない。
外に出て、自然と戯れる。
創作活動はほとんどしない。
冬、気持ちは内部へと向かう。
冬は家をでるのが億劫になる。
夏に体験したことや、見たもの、出逢った人、感じたこと、
などなどが自分の内部で日の目を見ようと鎌首をもたげてくる。
それらが飽和状態になったとき、なにかが生まれ出る。
僕は季節に影響されやすい。
僕にかぎらず、大部分の日本人は季節に影響されやすいだろう。
それは豊かな四季のサイクルで作物を育て、生活してきた農耕民族の血がそうさせていると思われる。
その繊細な四季の移り変わりと同じように、
繊細で緻密な日本文化がこの国では育まれてきた。
山や、海や、森やいたるところに神々(精霊)がいた時代の話だ。
しかし、欧米化しつつある日本国にはもうその面影はほとんどない。
形式として四季の行事や祈りはあるかもしれないけど、
本質は失われてしまっていることが多い。
それは「自然=支配するもの」という、西欧の思想を取り入れてしまったからだ。
都市部や郊外の住宅地に行くと、田舎育ちの僕は一種のむなしさを感じる。
昔からある町や村などの集落は、
自然のサイクルに根ざして場所が選ばれ、ある意味では自然発生的に家が建ってきた。
そこの重要な場所には神社やお寺があったりする。
都市部や郊外は人間がお金を得るための手段として、または利便性が最優先されて家が建てられてきた。
そこでは農耕を手放し、経済性だけを求める自然と切り離された生活をせざるをえない。
そうなると、季節の「繊細な」移り変わりを感じるのは難しい。
そこには自然や風景と切り離された空間が横たわっている。
乱立するチェーン店などは美意識のかけらさえなく、日本のどこに行ってもある。
そういうところにいると、ふと自分がどこの町にいるのかわからなくなる。
例えば、美術館へコンペなどの受賞作を見に行く。
もちろんコンペなのでさまざまな人の作品がある。
しかし、昔の人の絵に感じる、愛らしさやきびしさ、おそれや無常感などなどがなく、
まるで顔のない人々が新しい手法を表現するだけの絵が列挙されていることがよくある。
それは現代日本人を如実にあらわしていて実に興味深い。
芸術作品は目新しさや新しい手法だけでは芸術作品には成り得ない。
それは商品だ。
なぜならその方法は、企業が新商品を開発するのと同じ方法だからだ。
経済最優先生活が生んだ弊害が現れている。
逆にそれはそれでおもしろくもある。
だから、農村部と都市部との二分化が進めば、
芸術作品も二分化されてくるのかもしれない。
それが如実に現れてくるか興味深いものだ。
今日はヒルちゃんに噛まれた。
今年こそはヒルに噛まれたくなかったのに。
