茨城県内でも盛んに芝居の公演が行われている。
都内でよく見かける小劇場などほぼ皆無だが、劇団は数多く存在する。
公演を行う場所は、市民ホールのような大きいところになってしまうか、
会議室などを使うか。
今回、シルヴァーウィーク中に見に行った芝居はいずれも後者であった。
場所を選ばずとも芝居は出来る。
芝居の質を決めるのは場所や設備ではない。
勉強になった。
20日(日)
まちづくり市民劇団●玉造座
「りばぁす・おぶ・わいるどだっく~芹沢鴨は二度死ぬ~」
@霞ケ浦ふれあいランド
茨城の玉造という場所は芹沢鴨の故郷だそうで、それにあやかって新撰組を絡めて町おこしをしている。
その一環として、今回の玉造座の公演も行われていた。
他県の新撰組ゆかりの地でも上演したそう。
今回の公演は、霞ヶ浦ふれあいランドという、霞ヶ浦大橋の傍らにある施設で行われた。僕の家からは車で30分弱といったところか。
そこに水の博物館というのがあって(とりあえず公共事業ウンヌンは置いといて)そこの会議室のような部屋で行われた。
会議室のような、というからには、元々は芝居をやる場所ではない。
劇場でなくとも芝居は出来る。
高校時代・大学時代などは教室を使用して公演を行ったものだ。
パーテーション、机、布を使って舞台奥を隠し上手(かみて)・下手(しもて)に袖を作る。
これで舞台は完成。
教室の半分はそのように舞台に使い、もう半分は椅子を並べて客席にする。
これで劇場完成。
後は、窓やら蛍光灯やらは暗転した時邪魔にならないように目張りするなりしておく。
照明は、普通の部屋だから当然上から吊るなど出来ないから、客席側からスタンドで立てるようにして舞台に当てる。
もしくは、舞台側の蛍光灯だけ活かして地明かりに使う。
そんなわけで、そういった場所を劇場として使用するのを見て、ちょっと学生時代を思い出したりした。
ああ・・・高校時代、ゲネで舞台袖にひっこもうとして袖にぶつかってぶっ壊したことがあったっけなぁ・・・。
役者は地元の青年団からも参加している様子。(もちろん、そこからだけではない。高校生、大学生なども参加しているようだった)
いいなぁ・・・潤沢な人材・・・。
お客さんもイベントの一環で行われている芝居だから、色んな人が見に来る。
小劇場でよくある、観客はほぼ知り合いの演劇人、ということもない。
子供連れもいれば、おじいちゃんおばあちゃんもいる。
こういうのはこういうので良いなぁと思う。色んな世代に見てもらえる舞台って幸せだ。
芹沢鴨にも興味を持った。
時間があるときに関係書籍があれば読んでみたい。
21日(月)
プロフェッショナルファウル
Vol.6『レディースコントジェントルメン』
@水戸生涯学習センター
これまた、劇場でなく会議室的な部屋を劇場に仕立てていた。
前述した玉造座と違うのは、照明を上から吊れるように工夫していること。また、客席を平台を使って雛壇にしているところ。
内容は、コント。紳士淑女がテーマらしく、役者はフォーマルな格好。
ちょっとラーメンズのようなニオイもする構成で、なかなか面白かった。
役者も技量がある人達が集まっていた。
・・・いいな。・・・ウチに出てくんないかな・・・。
ちょっとバタバタしていて、知っている人が役者で出ていたのに挨拶抜きで出てきてしまったのが悔やまれる。
今回、コントを立て続けに見せてもらい、その中で面白かったのが、
同僚にペットボトルの水を分けてもらうコント。
男が2人いる。
会社で仕事している。
片方の男が薬を飲む為に自分の周りをキョロキョロしながら水を探す。
が、ない。
同僚が飲みかけのペットボトルの水を持っていた。
男はそれをちょっと分けてくれとお願いする。
その同僚は歯周病なのだが、「気にしないから大丈夫」とペットボトルに口をつけようとする男。
が、その瞬間ためらう。
「オマエ・・・性病だったよな?」
その同僚はケジラミで、「それ口からうつるか!?(股間と口を交互に指差しながら)遠いだろ!?」と憤る。
立て続けに、男が
「オマエ・・・水虫だったよな?」
「・・・うつるか!?」
・・・というやりとりが繰り返される。
最後は、同僚が「お願いだからその水を飲んでくれ!」と土下座してお願いする。
このコントのカナメは、歯周病は気にしないけど、うつるはずも無いであろう病気を気にして飲むのを拒絶する男と、飲みさしの水を最終的になんとか飲んでくれと熱くなっていく同僚のやりとり。
さて。
コレを笑ってみていたのだが、モヤモヤと何かが心からこみ上げて来る。
それは、2つの方向からやってきていた。
1つは、「果たして、性病は口から感染することは全くゼロだろうか?」という疑問。
揚げ足をとるつもりは全くないのだが、ふと疑問がわきあがってきた。(結果的に揚げ足取りになっているじゃないか!ということはあるかもしれない。申し訳ない。)
しかし、これは、まぁ、おいておこう。
もう1つは、「これは差別ではないか?」「差別を笑っていいのだろうか?」という気持ち。
これには、マイッタ。自分の中からこんな気持ちが沸いて出てくるとは。
確かに、これは見る方向からすれば差別だ。
しかし、笑いと言うのは、多かれ少なかれ、差別を笑うものなのではないか。ちょっと語弊があるかもしれないが。
お笑い番組の影響で、番組内でのイジリが学校でイジメの手段として使われたなど昔から良く聞いた話だ。
笑いの手段が暴力の手段に摩り替わる。
決して僕はこのコントを非難しているのではない。
ただ、面白くて笑ったコントに対して、笑っている裏で同時にそういうことも考えている自分にビックリしたのだ。
逆に言えば・・・ヒドイ言い方になってしまうけど・・・差別と認識しているモノを笑っている自分がいるわけで。
正反対のものが同居することってあり得るのかもしれない。
考えてみればチャップリンがやっていたのはこういうことなのかもしれない。