大人の孤独は悪くない  -2ページ目

大人の孤独は悪くない 

〜触れずに愛し、愛して触れる

年を重ねて気づく大人の流儀。

― 北海道・名寄スポーツセンターの《第九》

〇 1975年11月16日、日曜日。名寄の町は晩秋の冷気に包まれていた。夜になると白い息が空に消え、凍てつく空気が人々の頬を刺した。その寒さを押しのけるように、名寄スポーツセンターには熱気と期待が渦巻いていた。日本最北での演奏記録となった、ベートーヴェン《交響曲第九番》。その舞台となったのは、人口3万人に満たない北海道の小さな町であったが、いつまでも人々の記憶に残る特別な日となった。


〇 最年少の合唱団員

私はその日、急ごしらえのアマチュア合唱団「第九を歌う会」の列に、最年少の一人として立っていた。入会資格は高校生以上。高校一年生の私は、ぎりぎりでその条件を満たし、胸を高鳴らせながら仲間に加わった。4月から半年間をかけて、毎週日曜日に練習会が開かれた。当時の私はまだ変声期の最中でもあり、うまく声が出せない。さらに大勢の大人たちに囲まれて歌うことに、毎回緊張をしていた。「本当にオーケストラと共演ができるのだ。第9交響曲の合唱に参加できるのだ。」との希望だけで、この苦行を乗り切った気がする。


〇 リハーサルで遠巻きに見かけた“ミューズ”

本番当日。このアマチュア合唱団は、それまでピアノ伴奏でしか歌った経験はない。殆どの団員が人生で初めて経験するオーケストラ、ソリストたちを加えたリハーサル。独唱陣が舞台に現れた。ソプラノは鮫島有美子。前年にデビューしたばかりの若き声楽家である。バスの岸本力の声が響き渡り、アマチュア合唱団のメンバーは度肝を抜かれた。さらにソリストたちの歌声が重なる。合唱団全員が、本物の声楽家たちに圧倒され「フロイデ」のかけ声がうまく出ない。そこにソプラノ・ソロが始まった。その瞬間、私たち合唱団は息を呑み、さらに声を失った。凛とした佇まい、しなやかで気品あふれる声。どこまでも伸び渡るその透明な響きは、まるで会場全体に差し込む光のようだった。

 

「これが本物の歌手なのだ」と、私たちは圧倒された。鮫島有美子は、まさに“ミューズ”そのものだった。

 

指揮:外山雄三(NHK交響楽団正指揮者)
管弦楽:札幌交響楽団
ソプラノ:鮫島有美子 アルト:荘智世恵
テノール:田原祥一郎 バス:岸本力
合唱:第九を歌う会
会場:名寄スポーツセンター(1975年11月16日)


 

〇 歓喜の夜

やがて本番。外山雄三が神経質そうに第一楽章を静かに振り始めた。やがて札幌交響楽団の厚みある響きが会場を満たす。第4楽章で私たち市民合唱団は渾身の声でそれに重なった。歓喜の旋律が高らかに歌い上げられると、鮫島の声はひときわ輝き、日本最北の地の夜空を震わせるかのように広がっていった。

 

観客の拍手と歓声に包まれて幕を閉じたその瞬間、北海道の小さな町全体が一つになったような感覚がそこにはあった。

 

新聞記事(翌日の演奏評)〕『名寄新聞』1975年11月17日付
「最北の第九は大成功に終わった。ソプラノ独唱の鮫島有美子は清新な声で聴衆を魅了し、市民合唱団の奮闘も印象深かった。」


 

〇 人生を変えた歌声

あの夜の体験は、私自身の未来を変えた。もともと確固たる願望もなく、地元大学への進学を目指していた私だったが、「東京で本物の文化や芸術に触れたい」という渇望が心に芽生え、進学先を東京の大学へと変える決意をした。芸術の力が人生の方向を変える――そんな事実を、私は自ら体験してしまった。


 

〇 永遠の歓喜

鮫島有美子にとって、あの夜は初の《第九》ソリストだったという。年月が流れ、鮫島はヨーロッパを舞台に輝かしいキャリアを重ね、数々のレコードとCDを残した。日本人声楽家としては、発売点数、売り上げ枚数ともに最高記録だそうである。世界で最も愛された日本人声楽家の一人となった。しかし私の中での彼女の原点はあの日にある。彼女がヨーロッパの歌劇場に出演していたころ、奇しくも私もヨーロッパへ赴任していた期間がある。残念なことにミューズとの再会は果たせなかった。しかしあの日の歓喜の歌は今なお耳に蘇る。そしてその歌声は、私の中で生き続ける“ミューズ”の声である。


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パリの街からカフェが無くなった光景を想像できますか? パリを少しでも知ってる人なら、そんな恐ろしいことを想像すら出来ないと思います。しかし東京の街では、これが現実の話となってしまった。スタバのような所は大繁盛しているのだが。

フランスに限らずヨーロッパにおいてカフェという場所は、人と会ったり、食事をしたり、ちょっと休んだり、または恋人や友人と語らったりと、生活の空間の一部になってますね。

ところがふと気づくと、東京の街からカフェなくなってしまった。土地が値上がりし、家賃が上がり、喫茶店(日本ではカフェをこう呼ぶ)の経営は「成立しない商売」になったからだね。

新宿などはかつてジャズ喫茶、名曲喫茶、歌声喫茶などと、純喫茶の他にユニークなカフェ文化が花盛りだったのですが、それも今や伝説と化してしまいました。私は最近、確信した事があります。それは東京のカフェ文化が消滅し、結果として日本の文化から「何かが消滅した」と思っております。

 その失われた「何か」が、実は日本にとって、「とても大切なモノ」だったのではないか? と、真剣に思ってます。
 

小澤さんの演奏を何回観たかな?自分でも思い出しきれない。ただその殆どが日本国内ではない。

ウイーン、ベルリンが最も多かった気がする。おそらく演奏会ではフィルハーモニック・ホールでのベルリン・フィルが最後だったと思う。

 

当時売り出し中の若手ピアニスト、ランランの曲芸のような弾き方が気になって、小澤さんもやりにくそうだった。

あれは何年だったかな?

 

ベルリン・フィルのメンバー達も、何度か顔を見合わせるような仕草をしており、名手達もやりにくそうだった。

 

ウイーンでは国立歌劇場の正面、ブリストルホテルの前で偶然後ろ姿をお見かけしたのが最後だと思う。

 

この大指揮者には色々な思い、出会いがあって文章がまとまらない。自分の心の中に大きな空洞ができた事は確かだと認識した。

 

偉大なるマエストロ、ありがとうございました。そしてお疲れ様でした。心の底から感謝を申し上げます。

 

 

 昔、まだ駆け出しのエンジニアだった頃、生まれて初めてパリへ行った時の出来事である。もちろん仕事で、もちろん一人で。三泊の滞在であった。最初の二晩はフランス人のエンジニア達とのディナーだったのだが、最後の夜はなぜか一人でディナーという羽目になった。これと言って行きたいところもなかったのだが、なんとく地下鉄に乗りモンマルトルへ着いた。

 妖艶な街娼達の誘惑を避けながら、雑踏の坂を上っていくと、赤い風車の前にたどり着いた。「ここがムーランルージュか?」 日本人の団体客の行列を横目で見ながら、入り口のボーイにチップを渡すと、彼はニコニコしながら順番を無視して私を中へ入れた。

 「ムッシュー、今日は一人か?」「そうだよ。悪いか。」「だったら、一人で来ている女がいるから、その人と一緒の席でいいか?」「俺は構わないよ」  確か、そんなとっても軽い内容の会話を交わした。

 ステージの一番前の一番端。 そこが私の案内された席である。それから数分後、ボーイに案内されながら、私の前に一人の金髪の美女がやってきた。

 「ご一緒してもいいですか?(流暢な英語で)」    「もちろんです。どうぞ(ふるえる英語で)」 

私の目の前にいたのは、往年の名女優グレタ・ガルボにそっくりの金髪女性である。知的で上品な顔の作り。シンプルかつ上質感漂うイブニングドレスを着た、この美女とディナー!?心臓が大きく一回、ドッキンと動いた。



 
 


 早起きが得意である。それも年々早くなる。今朝は、5時半に目があいた。去年の今頃は6時台だった。まっ、確実に年をとっている証し(あかし)だから仕方がない。

 しかしこういう男には、こういう男ならではのウフフな出来事がある。若い女から「あること」をよく頼まれるようになった。「あること」とは何か?

 それは「モーニングコール」である。女子大生のM。パティシエのH。幼稚園教諭のK。他約2名。皆、うら若き乙女達ではあるが、その行動時間は深夜に及ぶ。(何をしているかは私は知らない・・・)

 そこで、遅刻の許されぬ職場に勤務する彼女たちは、私にHelpを請うのだ。「悪いけどあした、起こしてくれない?7時ね。」などと言うメールがビシビシ飛んでくるのである。

 「早起きをする」と言うことは、「早く寝る」と言うことと同義語である。私は夜8時か9時にはもう寝ているので、翌日の朝、彼女たちからのメールをチェックし、順番にモーニングコールを開始するのが日課だ。その起こし方の詳細はココでは書けない。しかし、そこで面白いことをたびたび発見するのである。まっ、それもココでは書けないのだが・・・。

 最近そんなささやかな出来事に、甘酸っぱいエロスを感じるようになった。

やっぱりチョイワルのオッサンになったって気がするわ!