大人の孤独は悪くない 

大人の孤独は悪くない 

〜触れずに愛し、愛して触れる

年を重ねて気づく大人の流儀。

 

ベルリンのカフェには、時間がある。コーヒーを一杯飲むのに、一時間かけても誰も急かさない。隣の席では、新聞を読みながらスープをすすり、向かいのテーブルでは老夫婦が昼間から白ワインを分け合っている。そこには「休む」という行為が、ちゃんと人生の一部として認められている空気がある。

 東京のカフェには、それがない。
 「お客様、次の方がお待ちです」と、店員の笑顔の裏にはタイマーがある。
 カフェは“滞在”ではなく“消費”の場になってしまった。
 

 ベルリンのカフェが“時間を味わう場所”なら、
 東京のカフェは“時間を削る場所”だ。

 ベルリンでは、カフェが「社会の居間」になっている。
 打ち合わせも、口論も、愛の告白も、ぜんぶカフェで済む。
 

 私はある冬の朝、カフェ・アム・ノイエンゼーというカフェで、カプチーノとプレッツェルを  頼んだ。ガラス越しに雪が降り、隣のテーブルでは老紳士が静かに新聞を折る。その空気の中で、私はふと、「食べることは呼吸なのだ」と思った。
 

 焦って飲めばむせる。
 急いで食べれば味が消える。
 人生も、きっと同じなのだろう。

 

ベルリンでしか味わえないものといえば、アイスバイン(豚のすね肉の塩ゆで)だろう。
見た目は豪快だが、味わいは繊細だ。肉の中に塩が染み込むまでゆっくりと煮込む。ナイフを入れると、脂がとろけ、わずかに甘みがある。これをザワークラウト(キャベツの酢漬け)の酸味と合わせると、絶妙なバランスで味が調和する。


 日本人が言う「味の調和」ではなく、ドイツの料理は、沈黙の中にも秩序がある
 だからこそ、彼らのカフェも静かなのである。

 東京のカフェには、確かに美味しいケーキもコーヒーもある。
 だが、どれも“目的”のために存在している。打ち合わせ用、SNS映え用、ひとり作業用。
 ベルリンのカフェには、そうした“目的”がない。
 

ただそこにいて、パンをちぎり、少し話して、気が向けば本を開き、飽きたら外を見る。
 ——それでいいのだ。

 私はベルリンのカフェで、食事を「会話」として学んだ。
 料理は言葉のように、相手に向けて出すものだ。
 だから、料理がうまい人ほど、会話もうまい。
 アイスバインを静かに頬張りながら、
 私はいつも「この味を説明する言葉」を探している。
 

 きっとそれは、愛を語るのと同じ難しさだ。

 東京のカフェは、きれいだが、静かではない。聞きたくもないBGMも鳴っている。
 ベルリンのカフェは、古いが、落ち着いている。基本的にBGMは流れていない。
 どちらが良い悪いではない。
 

ただ、私はこう思っていた——
 

ベルリンのカフェは“生きる場所”だ。

 

食事というのは、理屈ではない。
 ベルリンでパンをちぎり、スープをすする時間。
 あの静けさの中に、人が人であることの尊厳がある。
 食べることを急がない人は、愛し方も急がない。
 だから私は、ベルリンのカフェが好きだ。
 コーヒーが冷めても、そこでの会話は暖かい。それだけでいいのだ。

ヨーロッパのホテルというのは、面白い。一人で泊まると言っても、たいていの部屋には二つの枕が並んでいる。

ダブルか、ツインか——どちらにしますか、と聞かれるたびに、私は少し困る。 「どちらでもいい」と答えるのが、いちばん日本人的で正直な返答なのだが、それが通じない国もある。

 イタリアでは、ダブルを選ぶ男は「恋をしている人」、
 ツインを選ぶ男は「休暇をとりに来た人」だと、友人が教えてくれた。
 なるほど、ヨーロッパではベッドの形にも人生観が出る。
 

 一人でダブルに寝るのは、どこか挑発的だ。
 そしてツインの片側にだけ寝るのは、なぜか少し寂しい。

 ホテルのベッドというものは、じつに不思議な場所である。
 その部屋で、どんな人が、どんな言葉を交わし、どんな夜を過ごしたのか、
 誰も知らない。
 

 だが、シーツにはかすかな記憶の温度が残っている気がする。
 旅先でベッドに腰を下ろすと、知らない誰かの孤独が、
 ほんの少しだけ寄り添ってくる。

 日本人は「清潔」を重んじるが、ヨーロッパの人々は「余韻」を重んじる。
 洗いたての白いシーツよりも、ほんのり人の気配を感じる方が、
 なぜか落ち着く。
 

 それはきっと、彼らが愛を“生活の延長”として扱っているからだ。
 食事やワインと同じように、セックスも日常の味わいの一部である。

 私は一人でベッドに横たわりながら、ときどき考える。
 ——このベッドは、誰のものなのだろう?
 今夜だけは私のものだが、昨日は別の男女のものだったかもしれない。
 そして明日は、また別の人がこのシーツの上で、
 孤独を癒したり、誰かを抱いたりするのだろう。

 

 思えば、人の温もりというのは、所有できない。
 腕の中にあっても、もう半分は過去になりかけている。
 だからこそ、抱き合うという行為は、ほんの数分の奇跡なのかもしれない。
 

 その奇跡を宿すために、ホテルという場所は存在しているのかもしれない。

 ヨーロッパのホテルでは、朝になるとハウスキーパーが静かにシーツを替える。
 昨夜の秘密を、白い布の下に包んで。その音を聞くたび、私は思う。
 

 ——ああ、孤独というのは、悪くない。
 少なくとも、自宅の自分のベッドでは決して味わえない静けさが、ここにはある。

 若いころの孤独は、だいたい「誰かに見てほしい孤独」である。
 カフェで本を読みながら、ほんの少しだけ視線を漂わせる。そんな芝居めいた孤独には、若さゆえの甘さがある。だが、四十を過ぎるころには、その一人芝居も面倒になる。黙ってワインを開け、月の位置を確認するだけで充分だ。そこには、誰かに見せるためではない、ひとりの「儀式」がある。

 ベルリンで仕事をしていたころ、ドイツ人の友人がこう言った。
 「孤独は、いい家具みたいなものさ。磨けば艶が出る」
 

 彼は週末をひとりで森を歩き、夜は古いグラスでビールを飲む。誰にも連絡せず、ただ「自分という部屋」に手入れをしていた。その姿を見て、孤独を“整える”という発想を初めて知った。

 日本では、孤独はどこか「敗北」のように扱われる。
 結婚していないとか、家庭が冷えているとか。だが、結婚していても孤独は訪れる。

 

むしろ、夫婦という近すぎる距離の中で、セックスが静かに消えていくとき、人は本当の孤独を知るのではないか。長年の伴侶が隣にいても、もう手を伸ばさない夜。相手を嫌いになったわけでもないのに、触れることが億劫になる夜。

 

 あれは冷えではなく、慣れという名の静かな冬だ。だが、人は不思議なもので、そうした冬の最中にふと春を見つける。仕事先で、あるいは旅先で——同じように孤独を抱えた誰かと出会い、ひとときの寄り添いが生まれる。
 

 それは恋と呼ぶには短く、冒険と呼ぶには静かすぎる。
 けれど、その一夜にこそ、「ああ、生きている」と感じる瞬間がある。

 もちろん、そんな出会いには痛みもつきものだ。
 連絡が途絶えたり、互いの生活に踏み込みすぎて後悔したり。
 

 だが、痛みのない大人の関係ほど、退屈なものはない。
 痛みは、感情がまだ生きている証拠である。

 孤独とセックスは、敵ではない。むしろ、良い同居人だ。
 孤独があるから、誰かの温もりが身にしみる。
 誰かの温もりがあるから、孤独がまた恋しくなる。
 

 その往復運動こそが、大人の人生を“味わい深くするソース”なのだ。

 夜、ホテルの小さな部屋で、シャツを脱ぎながら思う。
 ——誰かを求めることは、孤独を裏切ることではない。
 むしろ、孤独を深く理解した者だけが、人を抱くことができるのだろう。

 

 孤独は悪くない。


 痛みも、少しの愚かさも、ワインと同じで、熟成すれば香りになる。
 

 この国の経済成長を縛っているのは、実は二つの組織だと私は思っている。
 一つは「連合」、もう一つは「経団連」


 労働者のための団体と、経営者のための団体。方向は正反対のように見えるが、実のところどちらも同じカテゴリーに属している。

——「大企業」という名の枠の中に。

 定年を迎えて会社を離れ、改めて社会を俯瞰してみると、この国の経済構造がいかに偏っているかがよく見えてくる。日本の労働人口の大半は中小企業で働いているにもかかわらず、国の政策や制度設計の多くは、大企業を中心に回っている。連合も経団連も、その“中心”を前提として成り立つ存在だ。

 

 つまり、両者は「対立しているように見えて、実は補完し合っている」のである。
 

 労使交渉の緊張感を演出しながら、結果的には大企業の雇用と利益を守る。だがその外側にいる中小企業や個人事業主は、いつまでたっても「社会の周縁」に置かれたままだ。

 

 そこにいる人々は、組織に守られることも、政治に代表されることもない。

 

 高度成長期のモデルをそのまま延命させた結果、経済も社会も、いまや硬直化している。
 連合と経団連は、もはや「対立する力」ではなく、「変化を拒む両輪」なのかもしれない。

 

 この国の多くの人々が、そのどちらの傘にも入らずに働き、生きているという現実を、私たちはどこまで直視しているだろう。エンジニアとして長年、労働と経済の狭間で仕事をしてきた身として、いま改めて感じるのは——
 

 日本の国益のために変わるべきは「政治」ではなく、「この二つの団体」なのかもしれない、ということだ。

大手メディアの報道を見ていると、妙な違和感を覚える。公明党が連立を離脱したという政治的転換点を、まるで“裏切り”かのように伝える論調が目立つのだ。だが、そこには別の視点がほとんど欠けている。
 
 そもそも、政教分離は憲法の理念であり、政治が宗教の影響を受けすぎることへの懸念は、これまでも一部の国民の間で根強く存在してきた。今回の離脱は、そうした「原点への回帰」として肯定的に捉えることもできるはずだ。
 
 また、自民党が単独で政権を担うことを望む声も決して少なくない。にもかかわらず、主要メディアの報道には、そうした国民感情を拾い上げようとする姿勢がほとんど見られない。まるで「連立ありき」が前提であるかのように、政治を語ってはいないだろうか。
 
 報道とは、本来、出来事を多面的に照らす営みのはずだ。だが今、私たちが目にしているのは、あらかじめ決められた構図に沿って事実を配列する“報道の演出”である。そこに漂うのは、無意識の同調圧力と、思考の惰性だ。
 
 「なぜ報じられないのか?」ここに最近の政治報道の問題点がある。