️「東京大空襲の日にあたって、、」
1、はじめに
 1945年(昭和20)3月10日未明、東京下町地区に対する爆撃を中心とする、米軍の大量無差別の航空爆撃作戦が行われた。
 B29約300機による、約2時間半に渡る大規模な攻撃で、下町一帯は焦土と化し、一夜にして10万人にも及ぶ尊い命が失われた。
 また、3月10日だけでなく、米軍の度重なる空襲は、戦闘員・非戦闘員の区別なく行われたため、その犠牲の多くは民間人でした。
 こうした東京空襲の史実を風化させることなく、「今日の私たち」と「今日の日本」は、数多の尊い犠牲の上に築き上げられていることを次の世代に語り継ぎ、「戦争の防止」と平和を祈念し、哀悼の意を表します。

2、経過
 東京への空襲は、1944年11月24日から、サイパン島などマリアナ諸島を基地とするB29爆撃機によって100回以上繰り返されていたが、いずれも日中に1万メートル以上の上空から、軍需工場を目標とするものであった。

 しかし、3月10日の大空襲は、午前0時8分から2時間半に渡り、B29約300機(正確には279機)が、高度2千メートルという低空から侵入し、絨毯爆撃を行った。
(ピンポイント爆撃から絨毯爆撃、つまり、点から面へと攻撃の態様が変わったということです)

 B29の爆撃は,長時間燃焼するナパーム弾を用い、深川地区(現、江東区)から始まり、墨田区、台東区にまたがる40平方キロメートルの周囲に焼夷弾を投下し、「火の壁」で住民の「逃げ道」を塞いでから、その内側に1665tの焼夷弾を投下した。

 ユタ州の砂漠に、米軍は、下町風の長屋まで建てて、投下実験を重ねていた。
 焼夷弾と呼ばれたその爆弾のひとつひとつは、空中でさらに細かい筒に分かれ、炎の尾をひいて地上へと向かっていく。筒にはゼリー状にしたガソリンが詰まり、地上で弾け、飛び散る中身が付いて燃え上がれば、水をかけても早々消えることはなかった。 

 米軍によるこの爆弾の豪雨は、空っ風の吹く3月の夜を狙って東京下町に投下され、計画通り、木と紙でできた家々に、細い路地に、道路に、橋に、逃げ惑う人々の体に、背中でおぶわれる乳飲子に、弾けてべったりと付き、燃え上がった。
 そして、その炎は生きたまま人を焼き、人は火柱と化した。

 約300機のB29の機爆による出火は,強風に煽られて大火災となり、約40平方キロメートルが焼失し、鎮火は8時過ぎであった。       
 この火災を煽った風もこの時期に風が吹くことを計算に入れたものだった。

 これに対する日本の対応は、「空襲警報が遅れ、警報より先に空襲が始まり、奇襲となったこと、踏みとどまって消火しろとの指導が徹底されて、火たたき、バケツリレーのような非科学的な消火手段がとられ、火災を消すことができないで、逃げおくれたことなどの要因が重なり」(東京大空襲・資料戦災センター)犠牲者は増加した。

3.被害の結果
 焼失家屋27万戸、東京の全建物の1/4が破壊され、家を失うなどの罹災者数は100万人余りに達した。
 死者は、警視庁調査では8万3793人、負傷者は4万918人となっているが、「東京空襲を記録する会」は、死者数を10万人としている。

 これは、沖縄戦における県民の死者15万人、原爆投下による広島14万人、長崎7万人に匹敵する犠牲者であった。

4、大空襲の目的・特徴
 本攻撃の目的について、米国の公式見解では「日本の中心部に集中している工業的及び戦略的な目標を破壊すること」とされている。
 また、東京大空襲・戦災資料センターによると「住民を殺戮し、それによって戦争継続の意思を削ぐこと」とあります。
 このように目的や見解は別れますが、下町風の長屋まで建てて焼夷実験を繰り返し、爆撃により「火の壁」を作り、住民の逃げ道を塞ぎ、戦闘員・非戦闘員の区別無く行う無差別攻撃であった。
 この攻撃は、民間人を標的としたことは明らかであり、明白な国際法違反と言えるだろう。これ以外の表現が見つかりません。

 この爆撃を立案・指揮したのは、カーチス・E・ルメイ司令官であった。
 空襲から19年後、日本政府は、同氏に航空自衛隊育成の功で勲一等旭日大綬章を授与している。

️ 課題
 日本政府は民間の空襲被害者に何の救済もしていません。空襲は、国が始めた戦争の帰結です。
 日本政府は元軍人・軍属には恩給・年金などで補償を続けています。しかし民間の空襲被害者には「戦争被害は等しく受忍すべきだ」などと救済を拒んでいます。

 全国空襲被害者連絡協議会(空襲連) は、被害者を差別するものとして、国に「法の下の平等」を訴え、救済法の制定を求めています。
 
 同じ敗戦国のドイツやイタリアは「国家賠償」として空襲被害者を救済しています。主要国は何らかの形で戦争被害者に対応しています。日本だけが、民間の空襲被害者に何の救済もしなくていい筈はありません。

 民間戦災者を、とりわけ被害者が高齢化している今、これ以上置き去りにし続けることは、国としての役割と責任を永遠に失うことになるでしょう。

 空襲は国が始めた戦争の帰結です。
 空襲被害者の救済は、被害者の救済に止まるものではなく、「戦争の防止」と「今と将来の平和」を創造することに繋がるといえるでしょう。

       夕暮れ  トンボ

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 ◼️  参考・引用文献、資料
・全国空襲被害者連絡協議会 ホームページ
・『東京を爆撃せよ』おくずみ喜重 三省堂
・東京大空襲・戦災資料センター ホームページ
・『東京空襲を記録する会編『東京大空襲・戦災誌』全5巻(1975・講談社)
・早乙女勝元著『東京大空襲』(岩波新書)
・(株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」2009年
・小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
・ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典(コトバンクより)
・しんぶん赤旗  2023.3.10  (2)『主張』
・読売新聞 縮刷版 2018年3月6日
・朝日新聞 縮刷版 1995年3月10日