春の轍 ⑧の1
尾川永児
「パパ、あれなーに?」
五歳ぐらいだろうか。両親に連れられた男の子が改札を出た所で
こちらを指しながら言うと、優しそうな父親が答えた。
「あれは屋台のラーメン屋さんだよ」
「屋台のラーメンさんて?」
「お外でラーメンを食べられるんだよ」
「お外でラーメン食べれるの?」
「そうだよ。パパが小さい時はよく食べてたなー」
「ラーメン食べたい!お外でラーメン食べようよ」
父親の手を引き屋台に行こうとする息子の前に母親がしゃがみ込
んだ。
「啓ちゃん。お家に帰ってご飯を食べるから駄目よ」
「えー、だってパパも食べたことあるって」
母親は立ち上り父親に顔を寄せると不満げに言った。
「あなたが余計なこと言うから」
「ま、たまにはいいんじゃないか」
「何言ってるのご飯用意してあるのよ。それに屋台なんて不衛生
だし」そう言うと食べたいとぐずる子供の手を取り、作り笑顔で
言った。
「今日は啓ちゃんの好きなハンバーグよ」
「ハンバーグも食べたいけどラーメンも食べたい」
「いいわよ。でもラーメン食べたらアイスクリームは無しかな」
「え?アイスクリームあるの!アイス食べたい。早く帰ろう」
アイスと聞いた男の子は嬉しそうな顔で母親の手を引きながら
住宅街へと消えた。
屋台を始めて二日目の事だ。
もう一つは四日目の深夜。ほろ酔い気分のサラリーマンがこちら
に向かって歩き出した所で携帯が鳴り、奥さんらしき電話相手に
わびを入れると背を向けて去って行った。
この四日間で食べてもらえそうな状況と言えばこれだけだった。
繁盛している店でも始めた当初は大変でしたなどとよく聞くが、
今の状況が良いのか悪いのかさえ素人の自分には判らない。
明日の準備を終え床に就いた謙三は僅かに入って来る月明りで
うっすら見える天井を見つめた。
この状態が続けばあと三ヶ月程で材料が買えなくなるだろう。何
もせず慎ましく生活すれば年金で生きては行ける。だが、たった
三ヶ月で辞めていいのだろうか?春子は何て言うだろうか?
そんなことを考えているうちに謙三は眠りに落ちた。
翌朝。いつもはめざまし時計が鳴る前に目を覚ましていた謙三が
めずらしくベルの音に起こされた。
謙三は耳元で無遠慮に鳴り続けているベルを止め眠い眼をこすり
ながら躰を起こした。
すると筋肉痛に加え節々の痛みで思わず声を上げそうになった。
歳を取ると筋肉痛が遅れて出ると聞いたことがあるが(まさか五日
目で痛みが出るとはな)。
これで少しでもラーメンが売れていたら疲れも違ったのだろう。
謙三の脳裏にしげさんの言葉が浮かんだ。
「俺たちの若い頃は屋台でラーメンを食べる人が大勢いたけど最近
は少なくなったよ。だから都内で屋台と言ったら大きな繁華街ぐら
いなもんだ。ましてや井の頭公園じゃ商売をするには厳しいかもし
れないよ」
その通りだった。
謙三は部屋の隅に置かれた文机の上で微笑む春子の写真をぼん
やり見つめた。
春子には井の頭公園にこだわる理由があった。
井の頭公園は謙三と春子が最初のデートで待ち合わせた場所で
あり、プロポーズした場所でもあったのだ。
そんな理由からだろう二人で屋台のラーメン屋をここでやりたいと
話す春子は本当に、本当に楽しそうだった。
そんな春子の夢をを叶えてあげたい。こんな自分に付いて来てく
れた春子の夢を。
「よっこらしょ」謙三は大きく息を吐くと掛け声を出しながら立ち上っ
た。
窓を開けると春とは思えない冷たい空気が部屋を満たしていく。
「少し冷えるな」
見上げると、今にも振り出しそうなどんよりとした灰色の雲が低
く垂れ込めている。
(まだたったの四日じゃないか)
自分にそう言い聞かせると謙三は昨日と同じ一日を始めた。