春の轍 ⑦ 4
尾川永児
コンロに火を入れて十五分。水とスープが七十度に達した。この温度
なら注文を受け小鍋で沸かせば数分で調理でき、尚且つ雑菌が死滅す
る。
謙三はこの状態を保てるように火力を調節するとおもむろに立ち上っ
た。そして最後に屋台の庇に吊り下げられた赤い提灯に灯りを点すと
ラーメン春の文字が浮かび上がる。
謙三は屋台から数歩離れるとズボンの後ろポケットから春子の写真
を取り出し屋呟いた。
「どうだ春子。俺たちの屋台だぞ」
謙三は達成感に胸が熱くなるのを感じた。勿論、今日が始まりの一
歩だと分かっているし、不安や緊張も有る。それでも春子との約束を
一つでも果たせた事への思いが謙三の胸を熱くさせた。
写真をポケットに戻し謙三は自分の椅子に座った。そして屋台越しに
観える暗い商店街を真っ直ぐ見つめ、緊張の面持ちで客が来るのを待
った。
そして五分ほどでその時はやって来た。
渋谷発の下り電車がブレーキの金属音と共に井の頭公園駅に停車
した。
乗客が来る―そう思うだけで緊張が増して行く。
そして動き出した電車の音が遠ざかるにつれ、かき消されていた人
の気配が既に改札口まで来ているのが分かると心臓の鼓動が身体
全体を揺すっているかのごとく大きくなり、呼吸は無意識では出来ない
ほど深くなっていった。
謙三はお地蔵さんの様に身動き一つせず正面を見続けた。
勿論、緊張のせいもあるが、改札から出て来た乗客にどんな顔をす
ればいいのか判らなかったのだ。
だがそんな謙三を他所に、乗客はベルトコンベアを流れて行く部品
の如く改札を通り抜け夜の住宅街へと吸い込まれ行く背中を見送っ
た。
時間にすると二分ほどだっただろうか。
再び訪れた静寂に「ふー」っとため息をもらし謙三はうなだれた。
(電車が来る度、こんな思いしてたら三日ももたんな)
正直情けなかった。客が来なかったことに安堵している自分がいた
からだ。
客には来て欲しいが、上手く対応出来るのか自信など何処にも無い。
それでも春子のラーメンを誰かに食べて欲しい。
そんな葛藤を改札から人が出てくる度に何度も繰り返した。
それでも時折屋台に眼を向ける者もいた。だが関心を寄せると言う
より物珍しさからの一瞥なのだろう。足を止めることも無く無言で通り
過ぎた。
やがて最終電車が井の頭駅に到着した。ラーメン屋台春が営業を
開始して四時間。時刻も夜中の一時を廻っていた。
最後の乗客三十人ほどが駅を後にすると五分ほどで駅前を煌々と
照らしていた駅舎の灯りが消えた。
そして時が止まったのかと思うほどの静寂が辺りを支配した。
営業終了時間は午前一時半。あと三十分ほど残ってはいたが通り
過ぎた人々の様子を見れば、この先静寂に包まれた深夜の住宅街
から客が来るとは到底思えなかった。
(こんな状態でこの先やって行けるのだろうか…)
来るあての無い客を待つ三十分がどれほど長い時間なのか・・・。
改めて商売の大変さを思い知らされた謙三だった。