春の轍 ⑦ 1
尾川永児
屋台を引き始めて三十分が過ぎた。
すれ違う人が物珍しそうな顔を向ける中、住宅街を抜け多くの人々
で賑わう吉祥寺駅へ出た。相変わらずの喧騒だが、それでも散り終
えようとしている葉桜に井の頭公園への花見客も減り普段の常態に
戻りつつあった。
謙三は駅前の狭い車道を諦め通行の邪魔にならないようにと広め
の歩道を選び移動していたが、大きな屋台が道の大半を占拠してい
るのだ。物珍しそうな視線はいつしか迷惑そうな視線へと変わってい
た。
「ふー」
目的地までは残り半分。謙三は百貨店前の広い歩道の端に屋台
を一旦止め大きく息を吐いた。
初めての事とはいえ、たった三十分。屋台を引くことがこんなにも
大変なのかと改めて実感していた。
体力もそうだが丼に寸胴一杯のスープを積んだ重たい屋台は急
には止まれない。携帯やゲームに夢中な人とぶつかるかもしれな
いと思う緊張感が疲労を倍増させていた。
夜のとばりに包まれようとしている街並みを街灯が照らし、ヘッド
ライトの灯りが屋台を浮かび上がらせては通り過ぎて行く。
「そういえば確か…」謙三は辺りを見渡した。
二十年程前だったか屋台のラーメン屋がこの辺に在った事を思い出
した。だが歓楽街を彩るネオンサインの灯り。途切れる事の無い人と
車の波。ささやく声などかき消してしまう音の雨。
「ここで商売など俺には無理だな」
つぶやきが雑踏に紛れる中、謙三は再び重い屋台を引き始めた。