もう老齢の域に達している私は・・・(笑)

最近思うのは、私は何か生きてきた「証(あかし)」は有るだろうか?

と言う事です。

 

そんな大それたことは思っていませんが、私とて数十年生きてきて、やっぱり何か私が生きていた証があるといいな~くらいに思い、何かあるだろうかと最近ポツリポツリ考えていました。

 

もちろん、何も無いのは分かってます。論文も書いた事は無いし、書もありませんし、それなりの作品と言うものもありません。悟りも開かなかったし~。

 

それでも私にも幼少期があり、青年期があり、壮年期があり、今老年期に達している訳です。まあ仕事はそれなりに過酷な時間を過ごしたのではないかと思うけど。それぞれの時代にも、象徴的な思い出もある訳でなし、まったく平々凡々とした人生だったのではないかと思います。(^_^;)

 

昨年、親族最後の叔母が他界して、いよいよ次は我々の世代です。

すでに何人かの同世代の友人や著名人は亡くなっています。

 

前回読書について書いたのですが、そう言えば私が中学時代から読んだ本は(つまらなかった物は除いて)ほとんど残してあります。小学校以前の児童書は在りませんが。。。

多分10代から読んだ本は、何度かの引越しの度に箱詰めしてほとんど持ち歩いたはずです。

これももしかしたら、私の生きた「証」なんじゃないかな~と思い始めました。

本はそれぞれの時代の私に影響を与えてきました。

学術書や思想書でなくても、その時々に読みたいと思った書籍を購入して、とくに若い頃は、乱読していたと思います。

 

私はいわゆる戦後の生れで、高度成長期、エレキギター(電子楽器)音楽、アポロ11号月面着陸、学園紛争、オイルショック、バブル崩壊、東日本大震災の中を生き、世界ではベトナム戦争、湾岸戦争、イスラエル建国、ソビエト連邦崩壊、ベルリンの壁崩壊、現在はロシアのウクライナ侵略(これは侵略だと思います)、イスラエルvsガザ対立(←正しくないかも知れません)があり、思えば色々な事がありました。

関連する本を読んだこともあったような。。。

 

読んだ本が生きた証・・・って言うのは、いささか強引ですかね~?(笑)

しかし、その時代々々の私の人格形成には大きく影響していたように思います。

そんな事を考える人は居ませんかね?

 

まあ私が他界した折には、蔵書は全て廃棄してもらって構わないのですが。