🍺 荒野の風に吹かれて 🏕




40年以上前の事になる。


意気揚々とアメリカ大陸に乗り込み、これから始まる新生活に不安を感じる以上にワクワクドキドキで全てが新鮮であった。


そうした中でもっとも不自由を感じたことはドル貨幣の計算でもなく(計算する程に持ち金はなかった)、英語が話せないことでもなく、銃社会の危険性でもなかった。何よりも苛立ちを感じ、一定時間思考を集中し、全ての動作を止めて上向き加減にボンヤリと目線を彷徨わさせた事実とは、重さや距離•長さの単位の違いであった。


それまでに日本で使っていたものと米国で使われる単位が全く違い、それぞれの単位同士の互換性に全く関係性が見いだせなかったからだ。今のように携帯電話でさっとコンバージョンするという習慣があるわけもなく、同時進行で英語を習得していたため英語会話の習慣性と同様に物事の単位そのものに習慣性を持たせる以外方法はなかった。とにかく使いこなし体に感覚で覚えていくのだ。これは英語会話の早期習得にも役立つ方法である。


そこで今回はその長さや距離の単位、そしてさらに重さの単位の違いや起源を調べ、太古の世界から現代にまで通じる物の単位について沈考してみたいと思う。




【長さや距離について】


アメリカで使用される長さの単位は、よくスポーツの場面で耳にすることが多い。陣取り合戦のアメリカンフットボールなど微妙な長さが足りなかったり、反則で大きく後退させらりたりとやたらと長さや距離に関係の深いスポーツである。そこで使用される単位には、『フィート』と『ヤード』がありそれぞれ、


『フィート』

これは文字のごとく、足の大きさを基準とし、大きな足のアメリカ人は約30センチを1フィートとした。


『ヤード』

両手を大きく横に広げた時の指先から鼻先までの長さを基準とし1ヤードとした。そして3フィートで1ヤードとなる。


そして距離を表すには『マイル』が使用されその起源はローマ時代。ギリシャ語の1000を意味する「Mille」が語源とされ、ローマ人の一歩が5フィートと換算されそれの1000倍である 5000フィートで1マイルとされた。現在では、5280フィート(1.6キロ)が1マイルとされている。


一方、日本で使用されている単位が 『メートル』であり、これは地球の大きさを基準にしている。地球の子午線の赤道から北極までの長さの100万分の1を1メートルとしている。ここで大きな違いは地球という人類にとって大きな天体を基準とするか、或いは人類にとって身近である体の一部の長さを使うかである。




かつて日本でも体の一部の長さを基準とした『尺貫法』が使用されていた。住宅建築などの現場ではたぶん今でも使われているのだろう。やはりフィートの場合と同様に片手の平を広げた親指の先から人差し指の指先まで(約15センチ)の2倍を1尺とし、1尺の10分の1を1寸とした。一寸法師は想像していたよりも小さく、やはりお椀の船で旅に出られたという事になる。


『1間』はというと、家の柱と柱の間の長さの事で約6尺5寸であったが、明治時代に6尺と決められた。長さの基準は人体の一部と密接な関係にあり、人類の大きさから様々な大きさや長さを決定していた事になる。家や建築物というものは人の生活ありきの建造物であるからして、人類の大きさが基本となることは納得できる。


振り返って現代はというと、あまりに巨大な数字が並ぶことが多くなってきた。早さを競う余り距離は伸び、人間の歩幅などどうでもよくなった感がある。空間を飛び回り赤道から北極を回って彼の地に到達し、1万フィート上空を轟音で跳ねている。挙げ句の果てには垂直に27マイルまでかけ登り周回軌道に乗ったかと思えば、ロケットで月の裏側を探索し45万マイルの行程を無人で飛ばして悦に入る。


テクノロジーの進歩と共に人類の大きさ等ちっぽけなことに囚われること無く、より早く、より遠くへと人々は足元を見据える事無く大きな数字を追いかける。天文学ではあまりに数字が大きすぎるため光のスピードを基準とした『光年』で距離を計り、素粒子の世界ではあまりに数字が小さいため更なる新しい微小単位を作り出す。科学の進歩とは未知の世界への挑戦なのであるから、単位が次々と作られ人のサイズからドンドンかけ離れてしまうのも致し方の無いことなのであろう。




【重さについて】


アメリカに来た当初、スーパーマーケットに行けば肉の塊がドーンと売場に並び、アメリカにいることを実感した。貼られたラベルに書かれた重さは『パウンド』『オンス』で表示されそれが意味する数字がどれだけの重さなのか知る由もなかった。ま、知る必要もない程にその塊はとてつもなく大きく、一人で調理して食らうとまでの考えに至ることもなかった。


日本では当然『キログラム』『グラム』表示がされ、肉屋のショウケース越しに大将が、「奥さん、今日は何グラムいっときましょか?」と威勢良く声掛けしてくる。この『キログラム』、調べてみると


『キログラム』

1気圧の環境内での1リットルの水を1キログラムとし、その1000分の1を1グラムとするとなっている。これが世界共通の単位としてフランスで統一されたのが230年前というから驚きである。アメリカは独立し合衆国憲法の制定してまもなくであり、1803年にフランスよりルイジアナ州を買収したそんな頃。日本では徳川家斉が11代将軍として鎮座し江戸幕府開府200年となった頃。江戸市中の銭湯では男女の混浴が禁止されて9年たっていた、ん? それまで混浴というおおらかな時代だったんだ。


それまでは地方地方で違った重さの単位を使用しており、例えばギリシャでは1個のイナゴ豆1個の重さを『1カラット』と呼び単位としていたし、日本では1貫、2貫という単位で表していた。当然貨幣が流通し商業の発達と同時に重さや長さに体積というものの微妙な誤差が商売や取引上、わが身に直接降りかかるという経済圏が確立されており、統一する必要性に迫られたのだ。ここにも人類の何やら肌の暖かみをこの単位から感じられる。


『パウンド』

しかしアメリカにおいてはキログラムは使用せず、もっぱら『パウンド』を使う。

二つの単位の根本的な違いは、キログラムが重量表示なのに対しパウンドは質量表示であるということである。重量表示で物の重さを計る以前は天秤を使った質量を基準に物の質量を計る方法を用いていた。重りとのバランスで計る質量はその環境に左右されることはなく、地球上で計っても 月面上で計ってもその質量は変わらない。


最初のうちはその計測に使用する「天秤」を意味するラテン語の「 Libra 」という言葉を含んだ 『リブラパウンド』と呼ばれていたが、そのうち略されて『ポンド』や『パウンド』と口にすることとなった。ただし、今でも文字で表記する場合、「1 パウンド」は 「1 lbs」とリブラを残して書き記すようになったのである。


この『パウンド』の起源は 『キログラム』よりさらに古く何とメソポタミア地方から伝わり、当時使われていた大麦1粒の単位である「グレーン」を基準に主食のパン1日分の大麦量を「1 パウンド」と設定したのである。さて、何グレーンで1パウンドになるのだろうか。想像もつかないが何とも適当であり、はたまた人間的な感覚に寄り添った単位設定であるとも言えよう。




さて、ここまで長さや重さに関する単位の起源を調べ、書き連ねてみた。その行為のなかで気がつけば、身の回りに纏わり煩わしく手足に絡み付きこんがらがりながら締め上げてくるあらゆる数字が頭の中で渦を巻きだしてきた。老後生活のための貯蓄にいそしみ、個人的資産を獲得するため若いうちから借金してまで投資をし、毎日の株価の動向に一喜一憂する。高価な食事に快適な車、旅には贅を尽くし疲れる事無く、スーパーソニックで移動する。必要もない高級酒を棚に並べ、思い付く夢を叶えるためゴージャスで必要以上にふかふかなベッドで毎夜、夢見の床に就く。


欲望は尽きることを知らず、経済的保証は益々膨れ上がる。決して留まることを要求しない生活は、自身の度量と努力の賜物であろう。この資本主義の経済構造を根底から否定するつもりはない。転がり続ける怪物は、自身の回転力とそのパワーにより自滅するまでエネルギーを吸引し続けるのだろう。ちっぽけな一人の人間には及びもしないその怪力の前では、膝を着き天を仰ぎつつその無事を祈るしかない。


だが我々がかつて生きていた時代、何もかもが小さくても充実感で満ち溢れていたその時代、人間の手や足を基準にした領域で表せる素朴な世界に生きたその時代を忘れる事無く、たまに思い出すのも悪くはないものだ。いや、もしかすると年齢を重ねれば重ねる程、その方向に舵を切る事が求められるのかもしれない。今回のテーマに沿って沈考すればする程にそんな想いが広がっていく。


一人の人間が最低限必要な空間と物質だけを求め見事に向き合って生きていく。


我々はそれで十分満たされる気がする。




より早いスピードを求め、より多くの量を獲得し、より高く積み上げ、より遠くへ足を運び続ける。人類の誕生から身体的に実際どれだけ手足が延び、背が伸び、掴む手のひらが大きくなったのだろうか。変わらない限界を打破するため科学や道具を使い限界のそのそと側を求め続けた結果、人類はどうやらいろんな処に歪みが出てきたのではないだろうか。


このあたりで少しばかり

路傍の石に腰かけて

周りの景色に心を奪われても

失うものは無いのではないか