ぼうこうがん・緩和ケア

ぼうこうがん・緩和ケア

器質化肺炎(間質性肺炎)+膀胱がん→全摘→肺に転移→緩和ケア

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 2日前のこと、朝5時頃に目が覚めた。寝たのは午前2時半だった。突然「不安感」に襲われる。余命が尽き、自分という存在が消えて無くなる! という思いがわきあがった。そう先のことではない。どうすればいいんだ。もう将来が死しかないなんて。恐怖で自分が保てなくなった。何時間も、怖くてたまらなかった。

 

 一時、おさまったが翌日の昼も、この状態がぶり返した。

 

 今日は、緩和ケア外来の日である。先生にこの不安感のことを話す。それは薬物治療するレベルだと、あっさり言われる。

「ミルタザピン錠15mg」を処方される。うつ病の薬で軽いものらしい。とりあえず半分の量を2週間だけ試してみるとなる。

 

 以前、母が「デパス」という精神安定薬の依存症(中毒)になって、とても困ったことがあり、そういう薬には警戒心を持っていたが、不安症がなくならないので、すがることにした。

 やれやれ、生きるのはけっこうしんどい。

 

 がん保険の給付に必要な診断書が必要になった。もう治療が終わった大学病院へ行く。用件終了後に時間があったから、昨年、入院していた病棟へ行ってみた。長い廊下を行かねばならない。今の体力で歩くのはほんとうにしんどい。スーパーにあるようなショッピングカートを押しながら行く。途中にあるベンチで休憩しばし行う。

 

 昨年、入院していたとき看護師さんたちに大変おせわになった。その御礼が言いたいと思った。最後の機会である。しかし、病棟は基本、現在も面会は禁止である。

 

 病棟は中にある受付からの操作で開け締めされる。用件があるときは、インターホンで行う。看護師さんに挨拶したいと伝える。入院患者との面会ではなく、また最後の面会ということで、許可が出た。

 

 緩和ケアになったので、外来でも泌尿器科へ来ることはなくなった。それとは別の呼吸器の外来も、担当医が別の病院で診ることになった。もう大学病院へ来ることはない。

 

 一番お世話になった看護師さんが、運良く勤務中だった。会ってもいいと言ってくれた。看護師さんに緩和ケアとなったと伝えると、「がんばれ」とかの励まし、「大丈夫だよ」という慰めなどは言わなかった。

 

 看護師さんはそっと寄り添って、背中をさすってくれた。わたしの話に、「うん、うん。そうだね」と言いながら。

 

 看護技術にある「タッチング」である。深い安心感が生まれる。言葉よりも伝わるコミュニケーションである。赤ちゃんの時、母親からされた古い記憶が蘇るのか。さらに動物としてのコミュニケーション、スキンシップも脳の深い部分にあることだろう。

 

 数分で、看護師さんのナースコールが鳴った。

 もう、お別れだ。

 さようなら。

 

 帰りの長い廊下をまた、休みやすみしながら歩いた。ずっと涙が止まらなかった。

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 以前、元・職場で同僚だった人が、亡くなっていたというのを、ひと月以上後で知った。病気だったらしい。たまに仲が良かった人たちと会ったり、電話で話したりしていたのに、驚いた。いつも元気な人という印象があったから。

 

 体調が悪くなっていたなら、なんで言ってくれなかったんだろう。誰も聞いていなかった。言いたくなかったと思われる。入院していると、すっかり弱った自分の姿を見られたくないなあという心理は起こる。

 

 ただ、知らなかった者の〈喪失感〉は引きずる。ご存命のうちにお別れがしたかった。できれば、死ぬ思いを共有したかった。

 

 という訳で、来年になったらぼくはもう居ないんだよ、という押しつけキャンペーンをやっている。

 

 最近、小学校の同窓生が6人集まった。今まで同窓会は一度もいかなかったくせに、ごく親しかった2人に何人かに会いたいといったら、集めてくれた。50年ぶりの人もいた。最初、誰かわからんのが、おもしろかった。ただ何十人も集まる同窓会は行く気がしない。もう人が多いのは嫌だ。

 

 余命1年くらいとカミングアウトした。ほとんど反響なかった。ふーん、そうなの、という感じ。というのは、同級生はどんどん死んでいってるから。あらら、悲運のヒーローにはなれんかった。もうこの歳になったら、友人が亡くなることは日常なのである。そー、だったんか。

 

 で、これから〈毎月〉数人程度の同窓会をやることになった。人選はその日に来れること。人数は10名以下に限る。意外に、少なからずの人が地元に住んでいた。または、帰ってきていた。人生において同じ時間を共有したのは数年ほどであっても、なぜか不思議な安心感がある。なぜなんだろう。もっとも、今さら会いたくない人もいるだろう。

 緩和ケアの病院へ行く。外来の2度目になる。月1回である。数分の会話で終了。ほんま緩和ケア外来って、何もせんのだな。380円也。

 

 血液検査は別の病院で行うことにする。器質化肺炎(間質性肺炎の一種)の治療を10年来行っているので、そちらの病院で行う検査結果をこの緩和ケアの病院に持参することになる。

 

 写真は、地元のオンツツジ。

 人の背丈より遥かに高い野生のツツジである。

<実録告白・極私的・本当にあった暴露日記シリーズ>

「余命宣告・平常心崩壊」

 

 悩み、迷う日々が続く。冷酷非情な断言以来、平常心は崩壊。「厭世的な気分」に支配される。

 

 なんか世の中にハラ立ってしゃーない。テレビはいつまで「大谷さん」をやっているんだ。もうええだろう。野球中継もなしに、活躍場面の切り取りばかり見せられても、飽きてきたよ。野球の面白さはスーパースターの活躍だけじゃないんだよ。プレーの凄さだけじゃなく、頭脳ゲーム(駆け引き)のおもしろさもあるんだ。ハラハラ・ドキドキの展開、爽快感と悔しさを味わうものなんだ。

 

「これからは、好きなことをやっていってください」と担当医からアドバイスを頂いた。

でもなあ、私が好きなことは、何もせんとぼ~っとしてること。だらだら何も考えんと生きること。それを期限を切られると、せわしない。息苦しい。この運命をやがては受け入れないと、とは思うが、そうそう割り切れるものじゃない。

 

 当然だが、いつも〈死〉を意識してしまう。やがて来る死に、せかされるような意識状態。このイヤ~な時間を、達観で乗り切るという方法はあるかもしれないが、それは宗教修行を行った者だけが達する境地。時間がないだけでなく、ナマケモノの自分には無理。

 

 昔の小説家というのは、すごいな。作品が出た当時は不治の病に罹っていた二人の作家。

『いのちの初夜/北条民雄』(初出1936年・昭和11年)らい病 24歳没

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『檸檬、冬の蠅/梶井基次郎』(「檸檬」初出1925年・大正14年/「冬の蠅」1928年・昭和3年)結核 31歳没

 

 何十年も前から好きな小説だった。この二人が置かれた状況は、自分と同じだ。まさか自分もカウントダウンの中で生きることになるとは。

 

 ふたりの作家の表現は、冷徹な目によるものだった。強靭な精神力を感じる。どちらの病気も全身倦怠や発熱があるので、へとへとになっていたと思うのだが、雲の切れ間みたいなときに、執筆したのだろう。

 

 死を意識したらリアリストにならざるをえないけど。自分と向き合うのは、元気なときでもむつかしいものだ。過酷な運命まで見せられたら、泣いちゃいます。泣きすぎて、白目が充血して赤目になった。

 もうちょっとはあると思っていた。

 

 今日、緩和ケアの病院に初めて行った。最初に言われたのは、どこで亡くなりたいですか? え~っ、いきなりそんな! ご自宅か、病院か? 緩和ケアの病院にとってこれが一番大事らしい。

 

 自宅の場合、訪問医療になってくるので、その体制つくりを準備しておかないと、対応できないそうだ。それは、病院の都合である。わたしの命の行方はどこなんだ?

 

 肝臓に転移したら3カ月の余命になります。長い人でも2年くらい。半年から1年だと思って、準備はしておいてください。だそうだ。ただ急変することがよく起こります。元気なまま亡くなる方はいません。当然だよな。痛みが出ることが多いらしいが、医療用麻薬でかなり楽になるそうです。

 

 残りの命をしっかり生きてくださいね、と言われた。「残り」という表現が突き刺さるが、事実だなあ。

(写真)テカポ湖:ニュージーランド

 世界一美しい星空と言われている場所