こんばんは。長月六実です。
婚活を経て2020年40歳で結婚しました。
その体験記と現在を綴っています。
10月は、結婚してから知った自分について書きました。
11月は少し視線を変えて、
誰かと関係を紡ぐことについて
書いてみようと思います。
それでは本編です。
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結婚したら、家族になる。
婚姻届を出して、同じ家に帰り、同じ冷蔵庫を開ける。
お互いの予定を知っていて、
相手が何時ごろ帰ってくるのかも知っている。
体調が悪ければ心配するし、
大きな出来事があれば、たぶん一番に話す。
そうやって少しずつ、
「私」と「あなた」だったものが、
「私たち」になっていく。
でも、一緒に暮らしてみて気づいた。
家族になっても、
この人は、私ではない。
当たり前である。
そんなことは結婚する前から知っていた。
知っていたはずなのに、
近くなればなるほど、ときどき忘れる。
「普通、こうするでしょう」
「これくらい分かるでしょう」
「私はこう思うんだから、あなたもそう思うでしょう」
そんな小さな「でしょう」が、生活の中には案外たくさんある。
たとえば、何かを片づけるタイミング。
休日の過ごし方。
お金を使うところ。
人との付き合い方。
疲れているときに、話しかけてほしいのか、放っておいてほしいのか。
どちらが正しいというほどのことでもない。
ただ、私にとってあまりにも自然なことは、
いつの間にか、
「みんなもそうするもの」
になっている。
そして夫がそこから外れると、
「なんで?」
と思う。
ときには、
「なんでそんなことも分からないの?」
にまでなる。
怖い。
いつの間に私は、世界標準になったのだろう。
もちろん逆もある。
夫にも夫の「普通」がある。
私からすれば、
「いや、知らんがな」
と思うような普通が、たぶんある。
二人とも、自分なりの普通を何十年もかけて作ってきた。
違って当然なのに、
一緒に暮らし始めた途端、その二つを同じ箱に入れようとする。
そりゃ、たまには蓋も閉まらない。
婚活をしていたころ、
「価値観の合う人がいい」
と思っていた。
今でも、価値観が近いことは大切だと思う。
何もかも正反対の人と暮らすのは、きっと大変だ。
でも結婚してみると、
価値観が合うか、合わないか。
そんなに綺麗に二つには分けられなかった。
ここは驚くほど似ている。
ここは全然違う。
これは笑って済ませられる。
これは、どうしても譲れない。
昨日までは気にならなかったのに、今日は妙に腹が立つ。
人と人の間には、そんな細かい凸凹がいくらでもある。
そして近い関係ほど、その凸凹によくぶつかる。
会社の人なら、
「そういう人なんだな」
で済ませられることも、
家族になると、そう簡単には済ませられないことがある。
毎日会う。
生活がつながっている。
相手の選択が、自分の暮らしにも入ってくる。
だから腹が立つ。
分かってほしくなる。
変わってほしくなる。
ときには、
私のほうに合わせてくれればいいのに、
と思う。
たぶん、家族は近い。
近いからこそ、
相手と自分の境目が、ときどきぼやける。
でも、どれだけ近くても、
夫の頭の中に私が住んでいるわけではない。
私の頭の中に、夫が住んでいるわけでもない。
見えている景色も、
これまで生きてきた時間も、
大切にしているものも、
完全に同じにはならない。
家族になったから、
ひとつになるわけではなかった。
違う二人のまま、家族になるのだ。
最近は、そう思う。
そしてたぶん、
人と関係をつくるというのは、
その違いを全部なくすことでも、
全部分かり合うことでもないのだろう。
……とは思うのだけれど。
実際に夫が、
私の「普通」から盛大にはみ出してくると、
そんな達観はあっさり吹き飛ぶ。
「いや、それはおかしいでしょう」
と思う。
人間なんて、そんなものである。
でも、少し時間が経ったころ、
ときどき考える。
この人は、
私を困らせるために違うのではない。
私ではないから、違うのだ。
ずいぶん当たり前のことに、
結婚してから何度も気づかされている。
家族になっても、他人だった。
冷たい意味ではない。
むしろ、
他人だった二人が、
違うまま毎日同じ家に帰ってくる。
その「あいだ」に何をつくっていくのか。
たぶん結婚は、
そこからなのだと思う。

