他部署にいる中原さんは、きれいな人だ。
艶のある黒髪をひとつにまとめて、
白いブラウスに淡い色のカーディガン。
姿勢がよくて、声も柔らかい。
廊下ですれ違うと、必ず少しだけ立ち止まって会釈をする。
「ろみぃさん、おつかれさま」
その言い方が、いつも丁寧だ。
お菓子をくれるときも、
袋のまま渡したりしない。
小さなお皿に乗せて、
両手で差し出してくれる。
「よかったら、どうぞ」
にこり、と笑う。
素敵なお姉さん、という言葉が、そのまま似合う人だった。
•
私には毎週月曜日の朝の仕事がある。
先週分の建設関連新聞記事をまとめて、
中原さんに届けること。
スクラップした記事をクリアファイルに入れて、
時系列に並べる。
それを持って、三階の企画部へ上がる。
月曜日の朝は、少しだけ緊張する。
きれいに揃えられているか。
抜けはないか。
中原さんは、細かいところに気づく人だから。
その日も、いつも通り階段を上がった。
扉の向こうから、声がする。
強い声。
「何回言えばわかるの?」
足が止まった。
中原さんの声だった。
扉の隙間から見えたのは、
背筋を伸ばしたまま立つ中原さん。
向かい合っているのは、同じ部署のB子さんとC子さん。
二人とも、下を向いている。
「コーヒーの淹れ方、前にも言ったよね?
お湯の温度、粉の量、蒸らし時間。全部適当じゃない」
声は大きい。
静かな企画部の空気が、びりびりしている。
「お客様に出すものなんだよ?
そのくらいの意識もないの?」
怒鳴りつける、という表現がぴったりだった。
白いカップが机に置かれる音が、乾いて響く。
私は、立ち尽くした。
ノックするべきか。
引き返すべきか。
B子さんの肩が、ほんの少し震えている。
C子さんは、唇をかみしめている。
中原さんの横顔は、いつもと同じ整った輪郭。
でも、目が違う。
冷たい。
「すみません……」
小さな声。
「すみませんじゃなくて、改善して」
きっぱりと言う。
そのとき、私の手に持ったファイルの角が、汗で少し湿った。
•
数分後、私はノックをした。
「失礼します。新聞記事です」
振り返った中原さんは、いつもの笑顔だった。
「ありがとう、ろみぃさん。助かる」
さっきの声が嘘みたいに、柔らかい。
机の上のコーヒーカップは、きれいに並んでいる。
B子さんとC子さんは、もう席に戻っていた。
空気は、何事もなかったように整えられている。
私はファイルを渡しながら、
自分の鼓動が少し早いことに気づいた。
•
その週の金曜日。
給湯室で、B子さんに声をかけられた。
「ろみぃちゃん、ちょっといい?」
C子さんも一緒だった。
二人とも、声が低い。
「あのさ……月曜の朝、見たよね?」
胸が、どくんと鳴る。
「中原さんのこと」
私は、すぐには答えられなかった。
見た。
聞いた。
確かに。
「パワハラで、相談しようと思ってる」
B子さんが言う。
「証言、してもらえるかな」
証言。
その言葉が、急に重くなる。
私はまだ新人だ。
他部署の人間関係に、踏み込む立場じゃない。
でも、あの声は、確かに聞いた。
怒鳴っていた。
コーヒーの淹れ方がなってない、と。
それがパワハラなのかどうか、
私には判断がつかない。
指導と、叱責の境界は、曖昧だ。
「無理なら、いいんだよ」
C子さんが言う。
でも、その目は少しだけ期待している。
私は、白いカップの音を思い出す。
あの乾いた音。
そして、いつもお皿に乗せてくれるお菓子。
にこりと笑う顔。
どちらも、本当なのだと思う。
人は、ひとつじゃない。
でも。
どの顔を、私は証言するんだろう。
廊下の窓から差し込む光が、床に伸びている。
月曜日は、また来る。
私はまた、新聞記事を届ける。
そのとき、どんな顔で中原さんを見るんだろう。
そして。
自分の顔は、どんなふうに見られるんだろう。