数日後の午後、ろみぃは課長に呼ばれた。
「ちょっといい?」と軽い調子だったが、会議室に入ると課長はドアを閉めた。
「まあ、堅い話じゃないんだけどさ。」
そう言いながら椅子に座る。
ろみぃも向かいに座った。
課長は少しだけ間を置いてから言った。
「古沢さんのことなんだけど。」
ろみぃは顔を上げる。
「はい。」
課長は腕を組んだ。
「正式にはまだ言ってないんだけどね。」
「たぶん、あと一年くらいかな。」
ろみぃは一瞬言葉を失った。
古沢は六十歳。
孫がいるおばあさんのような穏やかな人だが、まだまだ元気で、普通に仕事もしている。
課長は続けた。
「定年。」
静かに言う。
ろみぃは小さく頷いた。
「そうですよね…」
課長は少し申し訳なさそうに笑った。
「まあ、会社の制度だからね。」
それから少し真面目な顔になる。
「で、そのあとなんだけど。」
ろみぃは姿勢を正した。
課長は言った。
「後任は入れる予定。」
「ただ、その人が入ってきたときに、今の仕事の割り振りは見直した方がいいと思ってる。」
ろみぃは少し考える。
確かにそうだ。
古沢の仕事。
庶務の一部。
細かい補助業務。
そして今は。
稲田が庶務をほとんど抱えている。
課長は続けた。
「ろみぃ、全体見えてるだろ。」
ろみぃは苦笑した。
「見えてるかは…」
課長は手を振る。
「いや、見えてるよ。」
そしてあっさり言った。
「一任するから。」
ろみぃは一瞬固まった。
「…え?」
課長は平然としている。
「仕事の割り振り。」
「どういう形がいいか、考えて。」
ろみぃは思わず聞いた。
「私が、ですか?」
課長は当然のように頷く。
「うん。」
「皆の動きもわかってるし。」
「古沢さんの仕事も。」
「稲田さんのことも。」
最後の名前のところで、課長はほんの少しだけ笑った。
ろみぃはその笑いの意味を、なんとなく察した。
課長は続ける。
「急ぎじゃない。」
「でも、考えといて。」
「新しい人が来たときに、すっと回るように。」
ろみぃはゆっくり頷いた。
「わかりました。」
会議室を出たあと、ろみぃは少しぼんやりと廊下を歩いた。
一任する。
それは信頼でもあるが、同時に責任でもある。
そして今の部署は、少し複雑な状態になっている。
古沢。
稲田。
そして自分。
どう割り振るのが正解なのか、すぐには答えが出なかった。
⸻
次の日の朝。
ろみぃが出勤すると、社内チャットにメッセージが入っていた。
稲田からだった。
「体調が悪くて、少し動くのがつらいです。庶務ができないかもしれません。」
ろみぃは画面を見つめた。
またか。
そう思った自分に少しだけ罪悪感を覚える。
体調が悪いのは本当かもしれない。
でも。
ここ最近、同じことが続いている。
ろみぃは返信した。
「無理しないでください。」
それしか言えなかった。
フロアを見ると、稲田は席に座っている。
顔色は普通に見える。
ただ、机に肘をついて少し俯いている。
少しして、古沢が声をかけた。
「稲田さん、大丈夫?」
稲田は顔を上げる。
「はい…ちょっと体調が。」
古沢は優しく言った。
「無理しなくていいよ。」
「庶務、今日はやらなくていいから。」
その言葉に、ろみぃはほっとした。
古沢は本当に優しい。
でも。
稲田は何も言わなかった。
返事もしない。
ただ、パソコンの画面を見たまま、黙っている。
古沢は少し困った顔をしたが、それ以上は何も言わなかった。
ろみぃはその光景を見ていた。
声をかけても返事をしない。
でも朝にはチャットで体調不良を伝える。
その微妙な距離感。
どう対応するのが正しいのか、わからない。
ろみぃは席に座りながら思った。
今、自分は二つのことを考えなければならない。
一つは、古沢の定年後の仕事の割り振り。
もう一つは、今目の前で起きているこの空気。
そしてその両方に、
稲田が関わっている。
ろみぃは静かに息を吐いた。
これは、思ったより難しい仕事になりそうだった。
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