みなさん、こんにちは!
NADESHIKO代表の工藤 裕実(くどう ひろみ)です!
「裕実さんのイメージぴったり!」と、みんなから好評だったお写真です♪笑
常に全力で、天真爛漫な私ですが
今日は私の生い立ちから現在に至るまでのことを書いていきます。
最後までお読みいただけると嬉しいです!
第一章 私の半生
幼少期から就職まで
青森のりんご農家の末っ子として誕生し、親戚の中でも一番末っ子。
自分の周りには大人ばかりの環境で育ってきたこともあり、口から生まれたんじゃないかと言われるほど人見知りとは無縁の生活をしてきました。
おてんばな子供時代
近所の人はみんな友達
18歳の時に上京。
将来お金に困るような生活はしたくないと考え、手に職をつけて一生困らないようにするために飲食の世界へ飛び込みました。
「人が働いていない時に働くから数年後の結果が変わるんだ」と言って誰よりも働く親の背中を見て育ってきたことと、負けず嫌いの性格も重なり、男性ばかりの80人の同期の中でも誰よりも早く店長になりたい、男性には負けたくない!という気持ちからがむしゃらに働き始めました。
極め付けは20歳の頃、当時の店長に「なんだよ、今回は女子社員かよ、めんどくせーな」と言われたのをきっかけに、絶対こんな店長にはなりたくない!!絶対今言った言葉を後悔させてやる!と心に決めました。
職場での苦悩と気づき
しかしやはり飲食業界は男性社会。役職者の9割が男性の中、女性の私が認められるためには人の3倍努力しないと土俵にすら上がれないと感じていました。
努力をし続け、なんとか店長にな流ことができました!!しかしそれはゴールではありませんでした。サービス残業・休日出勤は当たり前、1日最長20時間働き、7年間で13回の引っ越し、重すぎる生理痛を堪えるために薬を飲み続け、気がつくと生理が止まっていました。
とにかく必死だった店長時代
7年で13回の引っ越し
23歳 努力が実るが挫折。そんな中でも仕事にやりがいと誇りを持って働いていると初めて大きなプロジェクトを任されました。まさにキャリアアップのチャンスでした。しかしそのタイミングで実家の祖母がなくなり、さらに自分の元で一緒に働いていた女性スタッフが、家庭の事情で自ら命を絶ちました。当時の私はその辛さに寄り添ってあげられなかったことへの後悔と自責に苛まれ、自分自身も手の震えや目眩が止まらなくなり適応障害と診断されました。
仕事が自分の存在価値だと思っていたにも関わらず、仕事にいけなくなったことで、大きな挫折を味わいました。
努力すれば男の人にだって勝てるし、男に頼るなんて弱いやつのやること、一人でなんだってできると思っていましたが、努力だけではどうにもならないことがあると知り、離職を決意しました。
辞めて初めてこうなった原因はとにかく人に頼りたくなかったこと、そしていつしか心のどこかで男性を見下していたということに気づきました。
男性に勝とうとマウントを取るのではなく、男性を一人の人間として尊重し女性という自分の個性を受け入れることができる人が本当の強さを持った女性なのだと気付かされました。
男性が得意なことがあるように、女性にしかないものがあるのです。
心療内科に通いながら24歳で初の転職。
社会復帰ができるようになるまで、ただひたすら話を聞いてずっと支えてくれた人達に、この恩を返せるような人のために仕事がしたい!と思うようになりました。
人の役に立つ仕事として、疲れた人を癒すための整体師になりました。
整体サロンのオープニングスタッフとして働く
しかし今まで飲食業経験しかなく、知識も経験も無い、劣等感を感じ始めるようになりました。それでも尚、その劣等感と向き合い続け、さらに人の為になりたいと考えるようになりました。
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