なぜ人は人を無傷で愛そうとするのだろう。

 

なんでもない様な顔をして、

たまたま近く通ったからさ、みたいな顔して人を愛そうとするのだろう。


傷つきたくないからだろうか。


大袈裟に愛せば、次の瞬間には足下をすくわれて、もう二度とそっち側には戻れなくなるから。

 

でもたまたま愛することなんてありえない。


偶然出会った様に見えたって、

愛してしまった瞬間に大袈裟な出会いに変わってしまうのだ。


それでも私たちはまだたまたまみたいな顔を決め込む。

ギリギリまでその顔を崩そうとしない。


自分にはつけるだけのあらゆる嘘をつく。
優しいから顔がタイプだから、たまたま近くに居たからと。

理由があって愛している、

様々な正当そうな理由をつけて愛しても仕方ない様な理由を探す。


「タイミングだよね」とどこを見てるのか分からない、

頼りない目をする癖がついてしまっている。

 

 

私たちは自分がこの世界の主役である事を知っている。

どれだけ自分が素晴らしい存在か、分かり過ぎるくらいに分かっている。


でも、現実には自分を認めてくれる人なんて全然いない。

素晴らしい私を、素晴らしいと言ってくれる人をいつも心の底から求めている。

だから大袈裟に愛してくれる人が現れたら必ずその人を愛するだろう。


どんなにタイプじゃなかったとしても、
きっとその愛を無視する事は出来ない。
 

例え恋人が居たとしても。
 

心の目が悪い恋人より、私がダイアモンドだと分かってくれた、

視力が良いタイプじゃない人を選ぶだろう。


恋人ですら軽く扱った磨く前のダイアモンドみたいな私を、

見つけてくれたのだから。どうしたら無視する事が出来るだろう。

 

その大袈裟な愛に必ず心を打たれるはずなんだ。

 

だけど私たちの多くはそこまでして人を愛そうとしない。
そこまでして大袈裟に愛せば必ず愛されるのに。


いつまでたってもたまたまみたいに愛そうとする。

まるで偶然の賜物かの様に。

 

 

心を打つ大袈裟な愛は、必ず相手の心を溶かし別の何かに変える。
まるでその人に愛される為に生まれて来たかの様な心の形に、変わってしまうのだ。

 

 

何が言いたいかと言えば、

1、2回振られたくらいで諦めるなんて話しにならないという事。


ダイアモンドは大きければ大きいほど、手に入れるのは大変だ。


たまたまなんて見つかるはずがない。

 

大袈裟に人を愛せばきっと傷つくだろう。
今いる場所にはもう二度と戻れないかもしれない。

 

でも果たして愛する事を知らないままのそっち側は、

どうしても戻らなければいけないくらいに素晴らしい場所だっただろうか。

 

ダイヤモンドの輝きを知らず、
ジルコニアを本物だと思い込み生きる事など私は御免だ。

 

絶対にダイヤモンドがいい。