わたしは朝にイライラすることが多いです。

 

起きて自分の準備、洗濯、お弁当と短い時間でやらなくちゃという思いと

 

’どうしてやらなきゃいけないの?’という思いが混じって

 

イライラするんです。

 

 

今朝は

 

’どうしてこんなにやらなきゃいけないの?’と言ってる自分に

 

「チガウヨ。これはね、あなたがやることなんだよ」と自分自身が心のなかで声をかけると

 

「え??」ってびっくりしていました。

 

 

 

 

自分のなかにはたくさんの自分がいるんだなって

感じます。

 

 

目標や目的が、

見えているようで見えていなかったり

分かっているようでいてわかっていなかったり

します。

 

たくさんの自分がいると、自分の中身が分散してしまい

とっちらかって自分を無くしてしまいます。

 

自分の言葉で、

それらの分散した自分を

少しずつ束ねていっています。

 

 

夢に向かえるように

 

目的に向かって進めるように

 

 

80歳を過ぎた義母が、

先週末こんな話を夫にしていたそうです。

 

戦争時代、

当時子供だったが実のお母さんと

しばらく離れていなくてはならず

その間、実はとってもさびしかった。

 

でも、自分がその当時’さびしかった’ということが

分からなかった。

 

つい最近(80歳を過ぎてから)、

あのころ実はさびしかったんだと

ふと分かってきたと。

 

 

お義母さん、きっと子供時代は生きることに必死だったんだろうな。。

自分が何を感じているかということに、

意識を向ける余裕もないくらいに。

 

でも、記憶はちゃんと残っている。

 

ただ、自分が無き物にしているだけで。

 

 

 

 

わたしは小さいころからお母さんを弟に奪われたと

思ってきていました。

 

だから、かわいがってもらった記憶がありませんでした。

 

でも、ほんとは違いました。

 

父と母に逆恨みをして、弟に嫉妬したことを謝ったとき

母のわたしへの思いが押し寄せてきました。

 

それはまるで防波堤が決壊したかのようでした。

 

母の愛情の量と、私の受け取れる量

 

まだわたしはその量を受け取り切れず、

そして今まで受け取ってこなかった事への謝罪が続いています。

 

少し前まではこの謝罪が済むまでは

前に進んではならないのではないかと

思っていましたが、

 

そんなことはなく、申し訳ないと思いつつも

少しでも前に進むことが

母へのお返しになるのだと気づきました。

 

 

愛されていた記憶ってほんとに誰にでも絶対にあります。

 

ただ、自分が頑なに無き物にしているだけです。

 

 

 

 

 

 

 

 

週末に台所の引き出しの中の紙袋をかなり大量に捨てました。

 

引き出しにパンパンに詰まっていて、

どの紙袋がどのくらい溜まっているかも分からないくらいでした。

 

かなりすっきりしました。

 

月曜日、会社に出勤すると

会社の備品ロッカーに「紙袋・布袋・エコバック」達が

備品の中に含まれていました。

 

それを見たとき、

ゴルフ場のカラスの事を思い出しました。

 

カラスは、ゴルフボールを拾って土に埋めるらしいです。

まるで大切な「宝物」を隠すかのように。

 

わたしの身体は「人間」の部類に入っていますが

どうもやってること、活動している脳ミソは「鳥類」のようです。

 

 

 

 

自分でも理由が分からないけど

ついついやってしまっていることってありますよね。

 

それは、今のあなたじゃない脳みそが

活動しちゃっているときなのかもです。

 

 

20代娘が台所にいるので、

 

わたし「お茶碗洗ってくれてもいいのよ」

 

娘「やだ!」

 

まるでわたしの若かりし頃の生き写しのような娘。

 

すごく感情が動きました。

 

 

 

娘に対して 

 

(オマエいい加減にしろよ!いい年齢こいて自分の茶碗くらい自分で洗え!)

 

と同時に

 

(お母さんがやってくれるんでしょ。それって当たり前でしょ)と思い続けてきたジブン

 

その両方がわっと一気に心に浮き出てきました。

 

そういえば、高校時代は作ってくれたお弁当のおかずに

文句言ってました。

 

 

当たり前はアタリマエじゃない。

 

アタリマエじゃないからこそ「感謝」がわいてくる。

 

こんなワタシをちゃんと育てようとしてくれたって

 

お母さんってホント偉大です。

 

 

 

 

 

 

 

日記をちゃんとつけたことはないけれど、

 

感じた事、思った事を言葉にしていく事が好きです。

 

 

 

もやっとした状態に、言葉というクリアな輪郭を付けて

 

「もやっと」がなんであるのか

 

ハッキリと浮き上がって来る。

 

 

その過程が楽しいんですね。

 

 

だから、もやっとが言葉にならないと

 

数日もやっとを抱き続けていることもあります。

 

数日経つと、自分の中で、

(今回は難産だわぁ~)とか思いながら

待っているような感覚です。

 

 

すると、ふわ~っとわいてくる。

 

海底から浮かび上がってくるような感じです。

 

ただ好きだった「書く事」をより大切にしようと思ったのが

この本との出会いです。

 

 

パウロ・コエーリョさんは、「アルケミスト」が有名な本ですが、

こちらは短い文章がたくさん載っています。

 

その中でもとりわけ好きなのが、この文章です。

 

”師は言う。

 書きなさい。手紙でもいい、日記でもいい、
 電話をしながらの走り書きでもいい!

 書きなさい。

 書けば、神に近づき、隣人にも近づくことになる。
 もしこの世界での自分の役割を知りたいのなら、書きなさい。

 誰の目にふれなくとも、
 誰の目にもふれさせるつもりはなかったのに、
 意に反して読まれてしまったのだとしても、
 心をこめて書きなさい。

 書く、という単純な行為は考えをまとめ、
 自分をとりまくものがなんなのか、はっきりさせる。
 一枚の紙と一本のペンが奇跡を生む。

 苦しみを癒し、夢を明確にし、
 失われれていた希望を取り戻したり与えたりする。

 言葉には力があるのだ。”

 

毎年、手帳の最初のページにこの言葉を貼っています。

来年の手帳にも。