23歳の乳歯
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ハーツバーグという人の動機付けの理論に関連して、不満の解消と満足することは違う、という話を聞いた。

経営学と恋愛あれこれを合わせた話で、要は、こまめに連絡を寄越せだとか待ち合わせに遅刻するな、といった相手の要求に応えているだけでは相手の不満を解消するだけで、満足させるには至らないという話だった。

この話を聞いた時に前から煮え切らなかったものが解けた気がした。

バートランド・ラッセルの『幸福論』という著書があって、それを読んだときに覚えた違和感をうまく言葉に直せないでいたんだけど、ハーツバーグの言葉を借りると難しい問題でもなかった。

ラッセルの幸福論は簡単に言うと、現状の生活から不幸を取り除いたら幸福になれるのではないですか、という内容だった。

一般的に、酒の席で幸福論に触れてしまうと各自めいめいが好き放題語ったのち、幸せって人それぞれよね、とぼんやりした結論しかでない。仲間との時間の過ごし方としては悪くないけど議論としてはナンセンスだ。

だいたいが幸福の定義で頭打ちになってしまう。

また、アランの『幸福論』では心と体は連動しているから、楽しい動きをすれば気持ちも楽しくなる、といったようなことが書かれている。

なかなかすてきだけど文学的で、論理的ではない。

僕はこの時論文を書きたかったのでアランはおおむね切ってしまった。

そういうわけでラッセルの提唱した不幸を取り除くという方法は魅力的だったわけだけど、なんだか寂しいなあという感も否めなかった。

ここでハーツバーグの言葉がピンとはまった。不幸のない生活と幸福な生活はイコールで結べないのではないか。

幸福論を扱っているときに希望的な意味でニーチェを使おうと思ったことがあった。

これはラッセルも言ってることだけど、人の幸せにはその人の所属する社会の肯定が必要だ。

じゃあ社会になじめない人はどうしたらいいのか、という問題があって、ラッセルは自分のなじめるコミュニティを探せと言っている。これは言葉で言うほど簡単なことじゃない。

で、息詰まった僕は社会的でない生き方としてニーチェの超人を思いついたんだけどやめてしまった。所属すべきコミュニティを探すより超人として生きる方がハードルが高かったからだ。

論文の回答としてはインターネットを使ったコミュニティ探しを推した気がする。ラッセルの幸福論はインターネットの登場でより実現しやすくなりましたね、みたいに書いて丸く終わらせた。

話が逸れた。ニーチェは幸せではなかっただろうけど満足のいく人生だったのかも知れない、とその当時誰かに指摘されたことを思い出した。

不幸を取り除くことと幸福はイコールではないし、幸福と満足もまたイコールではない。



最後に、これだけああだこうだ幸福論について書いたけど、本来実践すべきことを机上でこねくり回すのは精神衛生上よくない、というのが今の僕の見解で、哲学なんかもやめた方がいい。

考えるんじゃない、感じるんだ、とブルース・リーも言っている。

何でもやってるうちに分かってくる、というのが23年間哲学した結論だった。