かわいい人魚がいなくなって、このボロ屋に残ったのは老いぼれのわしと、人魚のために買い込んだ髪飾りばかり。生きがいを失い、ため息ばかりつく日々を過ごすわしはもう死を待つばかりじゃ。人魚がいつも気に入ってつけていた髪飾りをいじりながら、湖の近くまで重い足取りでのそのそと歩いた。水面に映る老いた顔をじっと見つめる。するとその顔に小さく輪が広がり、やがて水一面が音を立てて跳ね始める。だれもいない湖。冬の終わりの冷たい雨がわしの皺を埋めていく。こんな歳になっても、目から涙が出るとは思ってもみなかった。その場で立ち尽くして、雨に揺れる自分の顔を泣きながらじっと見つめた。すると、なんということか。自分の顔が見る見るうちにわしの人魚の顔に変わっていくではないか。大きな声を上げて「どんだけ心配したことか。もうわしから離れるな。」と泣きながら喜んだ。すると人魚はわしの持っていた髪飾りにそっと手をやり、そっとわしの頭につけた。そして人魚は小さくつぶやいた。

 「そろそろ時間です」

 わしはそうじゃったなと言わんばかりに、にっこり笑った。

 「ああ、わかっとるよ。わかっとる。お前がわしを案内してくれたのだろう。お前が存在しない、架空の人魚なのだということも、好色な男も村人も皆、ちゃんと。すぐにそちらに行くよ。」わしがそう言うと人魚は優しく微笑みながら雨に打たれる湖にゆっくり沈んでいった。

 「わしはずっとお前を探しておった。お前に会う前からずっと。いつものように村のはずれの砂漠の砂を掘り返していたわしが、不思議な歌声を聞いたあの日からずっと。あの砂漠にはわしが埋まっていたのだよ。生きていくことの意味を必死で探そうと砂を掘り返した。お前は砂漠に埋もれたもう一人のわしを見つけ出そうとしてくれたのじゃろう。つけたはずの“印”が風にかき消され、人生の砂漠に迷っていたわしを。たが、お前を創りだしたことで、幸せを手に入れた。答えなど最初からなかったのだよ。人生の答えなど。当たり前のように生きて、時が流れていく。わしは答えを見つけられなかったが、それこそが幸福だと今では思う。なにもかもが目まぐるしく変わるこの世は、空の青さを忘れていたのじゃろう。こうして空に重たい綿が浮いているときでも、耳をすませばちゃんと聞こえる。雨の葉をはじく音、水面を揺らす音、独白がちゃんと。その一粒、一粒が奏でる最期の瞬間を。答えがあるとするならば、その瞬間なのじゃろう。じゃからこうしてわしも旅立つことにした。」

 髪飾りを手でそっと押さえながら、おもむろに湖に入っていく。腰が浸かり、肩が浸かり、とうとう頭の先まで沈んでしまった。その最後の水面に残した輪の音は、雨にかき消されて聞こえることはなかった。


                                                           担当:よしき