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LGBT × 教育 × わたし

LGBTと教育について、ゲイの教員(予定)のわたしが思うところをとりとめもなく書くブログです

どうも、すぐるです。

修論のアイデアを整理しつつな感じなのでちょっと雑然とした内容。推敲とかあんましてないです、ごめんなさい。

テーマは<「性的マイノリティについての教育実践の取り組みにくさ」と「政治的中立」の関係>


まず「性的マイノリティについての教育実践の取り組みにくさ」について(°_°)
いろいろなセクシュアリティの先生方に会って話を聞いたりした自分の実感として、学校の先生は性的マイノリティについての教育実践に関して少なからず取り組みにくさを覚えています。
性的マイノリティについての教育実践というと、自分が意味するところとしては、授業としてセクシュアリティの多様性を扱うだとか、ホモネタを注意するだとか、ちょっとしたホームルームの時間にセクマイについて触れるとか、いろいろです。

こうした教育実践は教育現場では何だかやりづらい。共感できます?笑
ちょっと自分の例を出しますね。

昨年僕が私立の非常勤講師をやっていた時のことです。進学校とかじゃない、ゆる~い私立でした笑
僕は世界史の授業の枕として、性的マイノリティについて高校生の前で話そうとしたことがあったのですが、いろいろ考えてしまってついぞほとんど授業内でそれらを取り上げることができませんでした。
「セクマイについて話したら生徒からゲイかもしれないと疑われるかもしれない(恐怖)」
「もし生徒からゲイなんですか?って聞かれたらどう答えよう、はぐらかすのも嫌だし…」
「生徒が誰か他の先生に告げ口して問題になったらどうしよう…」
とかいろいろ考えて、性的マイノリティについて教育実践するのが非常に憚られたのです。

こうした「性的マイノリティについての教育実践の取り組みにくさ」の背景にはどんなものがあるのか!!気になります。

もちろんいろいろ背景にあるものは考えられますが、今回取り上げたいのは、<教師に要請される「政治的中立」のせいで、学校において性的マイノリティが取り上げにくくなってるんじゃないか>というものです。

そもそも教育における「政治的中立」とは何なのか、簡単に説明しておきますと。。
現行の教育基本法第14条には、政治的教養の尊重と政治的中立について次のように書かれています。

ーーーーーーーーーーーーー
第十四条  良識ある公民として必要な政治的教養は、教育上尊重されなければならない。
  法律に定める学校は、特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動をしてはならない。
ーーーーーーーーーーーーー

政治的中立はこの2項の方ですね。
「特定の政党を支持・反対するような政治教育、政治活動をしちゃいけないよ」っていうのがこの14条2項が本来さすところです。学校が特定の政治的イデオロギーの宣伝の場にならないようにするために作られたものと考えられます。

しかしー、この14条2項がさす「政治的中立」は、現代の日本では少し異なった意味で捉えられているわけです。どういう意味で捉えられたか。

本来政治教育を推進するための中立性の規定が、教育を非政治化するための「中立性」になってしまったのです※。

確かに、大学院生になってから「学校では政治教育をしてはいけないことになってるでしょ」と堂々と仰る先生に出会うこともありました。この拙文を見てくれている人の中にも、「学校では政治教育をしないことになってる」と考えている人がいるかも知れないです。
もっと言えば、日本社会自体に、「ノンポリ=政治的に中立だ」みたいなイメージがありますよね。
とかく、日本においては「政治的中立」とは学校の非政治化を志向するものとして捉えられてきてしまっているのです。


さて、ここからが本題(`・ω・´)
こうした意味での「政治的中立」をイメージする教師が「性的マイノリティについての教育実践」をしようとするとどうなるでしょうか…
おそらく、性的マイノリティについては学校で取り上げるべきではないと結論にいたるのではないでしょうか。

なぜって、性的マイノリティについて、社会的な理解は未だ進んでいない状態です。
この前NHKでやっていた調査(国立社会保障・人口問題研究所などの研究グループによる)でも、友人に同性愛者がいたら嫌だと答えた人は男女ともに50%を超えていました。「社会の過半数がセクシュアリティの多様性に理解がある」とは口が裂けても言えない状況なのです。

しかも、政権与党の自民党も谷垣禎一の同性婚をめぐる発言をみてもわかる通り、伝統的家族観を重視しており、到底性的マイノリティについて理解があるとは思えません。

国民のコンセンサスもとれていない、政府も認めていない、そんな内容を学校で教えることは、非政治化を志向する意味での「政治的中立」を前提にする限り、許されないことになってしまうのではないでしょうか。

「性的マイノリティについての教育実践の取り組みにくさ」の裏には、こういう日本的な「政治的中立」の捉え方があるのでは??


まぁ、多分2000年代の性教育バッシングに関してで誰かがきっと似たことを言っているのでしょーけどね。
全然まとまりません。

すぐるでした。


参考文献
※小玉重夫「日本における政治教育・市民教育の現状と課題」2015,『政治思想研究 第15号』pp.81-96