随分と遅れてしまいましたが、明けましておめでとう御座います。全くの筆不精で、最後の更新から数ヶ月経ってしまいました。これで昔は作家になろうなどと考えていたというのだから驚きです。しかし何と申しますか、ここ10年の内にTwitterだのインスタだの、情報の断片を限りなくWebで見られるようになったので、あまりにも情報過多になりつつあります。特に自分に必要のない情報は更新されても・・・・という視点もあります。

  さて、この数ヶ月の間に色々な事が起こったものです。新型コロナウィルスが蔓延し、日本並びに世界中が大変な事になりました。久しぶりに演劇公演にも出演しました。まあ、私本人としては何も変わっていないというのが実情でしょうか。少し衰えたようにも感じられる今日この頃です。
  東北に行ってきた震災の年からいつの間にか9年も経ってしまった。3月になり、震災特集がTVでやられるようになってきた。当時の記憶が蘇ってくる。限りなく続く瓦礫の街並みや、静かに青く拡がる太平洋の海を。

  久慈に辿り着いた後送ってくれた人と別れ、すぐに北の方へ向かう事にした。岩手が終わり、ここから漸く青森に入る事になる。ここに来る前にネットで調べておいたが、確か八戸には行きつけのネットカフェの支店がある。2000円で12時間泊まれて、ソフトドリンク飲み放題だしネットも使い放題だ。ネットカフェは旅行に行った時安く泊まれて便利だが、都市部や栄えたところにしかなく、今回の旅では結局八戸でしか使えなかった。
  八戸城址を巡り、八戸駅から数駅離れたネットカフェのある場所まで歩く。周りは色々と店があり、名物の煎餅汁もそこで食う事ができた。ネットカフェではrocket社のキャットファイトものを観ながらいつの間にか眠ってしまった。

  目覚ましで目覚め、更に北を目指す。三沢駅に辿り着き、そこから歩く事にした。が、どうした事だろう?  駅から反対側の方向へ向かって歩いていた事に気づいた。私は北ではなく、十和田湖の方に向かっていたのだ。大分歩いてから気がついたので、行くはずだった三沢の寺山修司記念館には行けなかった。
  本来ならばそこの側のキャンプ場に泊まるはずだったがそうもいかなくなってしまった(今考えればキャンプ場に泊まらなくて良かった。先日ステビーをしておいて寒い事は知っているはずなのに、、、若さって素晴らしい)。安宿ガイドブックを開くと、ちょっと歩いた場所に大きな牧場のユースホステルがあるという。だが距離が微妙に離れているので、流石にずっと歩いていくわけにもいかず、途中でバスに乗った。
  宿の牧場に着いた。すごい、敷地が広すぎる。何でも東京ドーム14個分もあるそうだ。利用するのが狭くてボロい安宿がほとんどなので、まずそのスケールに圧倒された。管理人の年配の女性によると、ここ数日で、泊り客は私一人だと言う。やはり震災の影響は深刻だった。宿のレストランも私一人で、そんな状況ではシェフが可哀想だと嘆いていた。彼女は話が止まらない。近所の事、震災時モグラ達も驚いて、地面から一斉に姿を現した事、ちょっと離れたところにある核燃料サイクル施設から何の連絡もない事等々・・・・
  「あらま、人に飢えてるわ。フフフ」
  それは私も同じだ。これだけ広い場所ならば、様々な人と交流できると思ったのに。色々と話をした後、溜まりに溜まった洗濯物を全部洗濯機に放り込み、酒をかっ喰らって、寝てしまった。
  
  さて次の日、下北半島を北上する事にした。まず青い森鉄道にて北西に進み、野辺地まで行き、そこから大湊線に乗る。下北半島の西側を北上して行く形になる。窓辺の風景は浜辺が延々と続き、本当に果ての果てに来てしまったという感じだ。次の目的地、核燃料サイクル施設は半島の東海岸にある。そこより少し西北西にある吹越という駅から徒歩で下北半島を東西に横断する事にした。よく探せば本数少ないがバスがあったのだが、そこまで気がつかなかった。歩いて往復で約30km。旅のシメには丁度いいくらいの歩行距離だ。
  駅を出て延々と牧草地のような山谷を歩いて行く。本当に長閑な場所だ。ハウスの名作劇場に出てきそうな場所だ。どういうわけか道端でエロ本を拾ってしまった。綺麗なままで、サンプルのDVDもついたままだ。荷物になるだけだったが、なぜか拾ってしまった。私の持っていた当時より10年前のものと比べて、カラー印刷技術が十全に発達している。旅の収穫物として今でも本棚に飾ってある。
  話を本筋に戻そう。行く先に郷土資料館があった。電源立地に対する交付金で建てられたという。原発や関連施設の立地地域には様々な補助金が出ている。今まで駅から通って来た風景は、一旅行者の私としては長閑で牧歌的で心地よい雰囲気だったが、そこで暮らす人達にとっては産業も限られているし、過疎化も進んで金回りもそれ程芳しいものではないだろう。補助金で大きな体育館や運動場等ができれば、この地に留まろうとする若者も増えるはずである。今回のような事故が起これば、退っ引きならない状況になり、全てを放棄して逃げ出さなければならなくなるが。
  核燃料サイクル施設PR館に入る。色々と張り紙がされてあった。「当施設への抗議のために外に張り紙をしたり、施設内展示物を破壊したりしないでください。」「今年3.11に起こった東北地方太平洋沖地震並びに、それに伴って発生した福島第一原発事故を踏まえて。本施設は55mの高い丘の上にあり・・・・」
   確かに55mにまで到達する津波(遡上)は、近代には起こっていない。ただ、もしここが福一のように制御不能になれば、その比ではない。所々展示物に取り外されているものがあった。内設のレストランで昼食をとった。
  更に道を南下するとサイクル施設の本体がみえてきた。入口や柵には電流が流されてあり、至る所に監視カメラが設置されている。勿論私のようなどこぞの馬の骨を受付は通してはくれない。中に一人変な奴が居るだけで、とんでもないことが起こされてしまうだろう。もし、職員の中にそんな奴、あるいは精神を病んだ人がいたとしたら、、、いやいや、考えるだけでも恐ろしい。