釜石の駅に着いた。この場には後に二回訪れる事になるとは、この時はまだ気づきもしなかっただろう。一度は一ヶ月強後の社協ボランティアバスにて。もう一回はこれから5年後に「復興イベント」として招待されて。駅前はまだ内陸にあるらしく、損傷しているところは見たところなさそうだ。駅前のマイヤ(岩手によくあるスーパー)も普通に営業している。その日と次の日は食事や酒は昼食以外はここで買う事にしていた。

  写真のピラミット型の建物はシープラザ遊。普段はイベントスペースとして使っているそうだが、今は各地からの支援物資の段ボール箱が籠車に乗せられそこかしこに置かれていた。その側の郷土資料館がボランティア受付の窓口だ。地元で掘り出された土器やらの史料は建物の奥に追いやられている(あるいは別の場所に移動させられたのもしれないが)。そこで名前を書いて登録し、チームを組まされた。私の振られた仕事は、毛布などの寝具の搬入だった。チームのおっさん達と一緒にマイクロバスに乗せられ、海の方に行く。まだまだ海岸など見えない街の中だが、とあるところから突然周りの建物が激しく損傷しているのに気づいた。まるで北斗の拳の、崩壊後の世界のような街並みだ。歩道には瓦礫が積み上げられ、人がやっと通れるかどうかくらいだ。

  「これでもまだよくなったくらいだ。3月は車道が漸く通るために取り敢えず歩道に避けたぐらいだったからね。」

  市に要請されて派遣されている方(一応仕事でだと思うけど)がそれを見ながら言った。とあるビルの側にバスは停車した。中にある毛布やら寝具を、おっさん達と一緒にその上の階に引越し屋のように持ち上げて行った。四人くらいで行ったので、1時間足らずでその仕事は終わってしまった。郷土資料館前まで戻って来て、近くの炊き出しで昼食の焼肉を食した。行く前にボランティアセンターの人に誘われたので、被災者のふりして並んだわけではない。

  近くのスペースには自衛隊の装甲車が何台も停まっていて、テントを張っていたりした。中には特設プールなどを設けていて、中で風呂が入れるようにするためのものもあった。パトカーもたくさん並んでいる。大阪府警、香川県警、神奈川県警もあった。全国から集結している。仮面ライダーの終盤によくある全員集合みたいだ。壮観といえば壮観だが、安全圏から来た他人事の視座で愉しんでもいられない。

  「午後からはコンビニ●の釜石支店の泥の掻き出しだ。住所は・・・・」

  食事が終わってしばらくすると次の目的地に向かった。チームリーダーが地図を眺めながら目指す目的地を窓辺に探す。が、ここは先程よりも海辺に近いところである。辺りの建物は皆瓦礫になっていて、地図が意味をなさない。運良く薬王堂という大きな薬局の建物が頑丈にできていて、津波の後も形を保っていた。そこを目印に目的のコンビニにたどり着いた。

  「あ、あああああああ〜〜‼︎‼︎‼︎‼︎」

  シンボルの二色の電光板だけきれいに残っていて、それ以外はすっかり鉄骨の骨組みだけになっており、店の駐車場は泥と瓦礫で埋まっていた。取り敢えず駐車場と側溝の瓦礫を取り去るのが今回の目的だ。瓦礫をかき分けて行くと、何やら湧き水のように溢れている。水道管が破裂しているらしい。下水じゃなくてよかった。

  「▲▲支店は酷かったらしいよ。津波の来る直前まで営業続けろと本部に言われていたそうだ。」

  私と同じくらいの年代の人が語る。この人も随分と長くここにいるそうだ。津波の通った後の酷い状況を色々と教えてくれた。御遺体は見つかり次第収容所に運ばれるが、なかなかそこにある事が知られない時があるという。流されて来た車両の下に隠れている場合だ。臭いで発覚するという。他にもダイバーが遺体の調査のために海中に潜って、すぐに帰って来た話を聞いた。潮の流れの関係でとある場所に漂流物が堆積する場所があり、そこを見事に見つけてしまったというのだ。彼は携帯を構え、辺りの様子を写真に収めていた。

  その日の宿はチームのおじさんが教えてくれた駅前の民宿に泊まった。ここは5年後にまた訪れる事になる。値段は当時より1600円程も高くなっていた。

  次の日はまた別のチームだ。駅近くのボランティアセンターからちょっと離れたところにあり、1日かけて一軒家の被災ゴミの瓦礫を掻き出すので、昼は残念ながら炊き出しに与れない。近くにあった小売店でカップ麺と菓子パンを買っておいた。

  その家は1階が海水に埋まってしまい、「どうせ死ぬならば家で」と2階で寄り添っていたら、2階には水は押し寄せて来ずに助かったという。ワゴン車の屋根から主人が何とか2階に乗り移ったそうだ。家の中のから海水と泥に埋もれた家財を運び出し、軽いものはネコ(工事現場で土を運ぶ手押し式一輪車。酔っ払いやパンチドランカーのように真っ直ぐ押す事ができなければ、どちらかに体重がかかりよろけてしまう)で運び出す。ほとんどが今年の台風の後の災害ゴミのように使い物にならないゴミだ。中からアルバムなどの大切なものを選び出し、小分けする。

  「本当に助かりました。ありがとうございます。」

  家の老夫婦からチョコやクッキーなどの菓子を貰った。

  「ここが復興したら、今度は観光に訪れに来ますよ。」

  この約束は5年後に一応は果たされる事になる。老夫婦と別れ釜石の駅に戻り、電車で北に向かう事にした。切符を買うため駅員に聞くと、

  「すみません。線路が津波で流されてしまって・・・・」

  考えてみれば無理もない話だ。ここ三陸リアス線が復興するのは、これから8年後の3月の事である。仕方がないので、鉄道が提携している代行バスで北に向かう事にした。

  池袋直通の夜行バスがここから出ているらしい。とてもここが近くに感じられた。