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ゴッドファーザー
 いつかは書こうと思っていた名作中の名作、ゴッドファーザーの観劇評を書いてみようと思う。一番最初に観たのはもう11年も前のこと。当時私はまだ高校生だった。それから年を経て何度観たことか・・・観る度に新たな発見があり、「ああ、自分も変わってきたんだな」ということが実感できる。家族・歴史・民族、こういったものをバックにすえられては、どんな映画も太刀打ちできないのでは・・・と思う。どんな事象よりも、人間の本質に近いものが描かれているからである。70年代、古き善き時代の、まだハリウッドの映画人が映画職人(グローバルな商品主義に毒されず・・・という意である。現代にもたくさんいい作品はある。ただし、当時と比べると、人間の内面を描いた深い作品が目立たないということ)として存在しえた時代の作品である。しかし私の父親にはこのよさは解りかねたようである。「何だ、おまえはヤクザものが好きだなあ・・・」としか言われなかった。人の心情や内面の動きに疎い人間である。
 の一番最初の場面の時代はちょうど第二次大戦が終ったころ。軍隊に志願していた三男のマイケルがちょうど帰ってきた場面がある。家族の一番末っ子のコニーの結婚式の場面から始まる。豪華な結婚式には、ニューヨークの他のファミリーのドン達も来ていた。カメラマンが写真を撮ると用心棒が取り上げ、中のフィルムを抜き出してしまう。その別の所では血の気の多いソニーが、19歳(原作ではそういう設定だが、女優を見た限りではそうは見えない)のルーシー・マンシーニとよろしくやっている(に出てくる三代目ドン・ヴィンセントはこの時できてしまったのだろうか? の79年から45年を引くと、丁度ヴィンセントと同じくらいの年になる)。
 皆が浮かれている雰囲気の中、ドン・ヴィトーはいつものごとく仕事をこなしている。葬儀屋アメリゴ・ボナッセラの復讐依頼の交渉をしているのだ。 その他にもドンの所には色々と相談人がやってくる。人気歌手のジョニー・フォンテーン 等である。でわかることなのだが彼はもともと、周りの人々の悩みを解決することで庶民の信頼を受けてきた人なのである。「幸福になりたいのならば、まず他人を喜ばせることからはじめまたまえ」というブリオールの言そのものを知っているのである。政治家マフィア(あるいはヤクザ)の違いは何か? 両方とも権力・利権・金に執着するというところでは同じである。「勝利して支配する、そして自分の思うような構造の世界を作り上げていく。」という面ではどちらも同じである。しかし政治家の場合その後に「福祉社会のヴェールで己の存在を包み込む」ということをする。庶民に対しての認識があるということである。マフィアでありながら、政治家としての資質をもっていた、見事なリーダーだったといえよう。
 そんなゴッドファーザーがドンとし存在するコルレオーネファミリーは、かつてはニューヨーク1の栄華を誇っていたが、今は少々落ち目になってきていた。5大ファミリーの他のファミリーがと虎視眈々とコルレオーネファミリーの隙を狙っている。ファミリー内部には裏切り者が現れ、他組織への内通者として存在するようになった。まず殺し屋のルカ・ブラージソロッツォ・タッタリア息子殺された。そして次には、ドン・ヴィトーが街で車から出て来た所を撃たれた。内通者はいつも運転手を務めていたポリー・ガットーだった。すぐに彼らはポリーを処刑する。「恩には恩を、裏切りには復讐を。」 というのが、シチリアマフィアコーザ・ノストラの掟である。後にこの掟を裏切って処刑された人間は、何人も出てくる。そしてその殺しをしたこと、組織の秘密そのものは、オメルタ(沈黙の掟)によって部外には出ないこととなる。その掟や、ファミリーの人間を大切にすることは、シチリアという島が、あらゆる外国から攻められ、島民の民族性が変わってしまうくらいまでに痛めつけられたからである。「北風がバイキングをつくった」と同じように、「多大なる侵略はコーザ・ノストラを作った」のであった。ニューヨークには五つの市があるが、その市の境界が引かれた基準は、五大ファミリーの縄張りだったと言われている。無論この五大ファミリーは、本作に出てくるものとは名前も違うし、粛清もされなかった。
 非常に多くの人物が登場し、一回観ただけではその相対関係が理解できない。とりあえずニューヨーク五大ファミリーは、コルレオーネ、ヴァルチーニ、タッタリア、クネオ、ストラチである。 それにラスベガスを立ち上げたモー・グリーン(に出てくるハイマン・ロスの友人で、モデルはバグジー・シーゲルバグジーも他のマフィアに暗殺された)がいる。麻薬の密売人がバージル・ソロッツォで、それに金で警護を雇われているのが、マルクスキー警部である。で、その二人を抹殺したマイケルがかくまってもらったときに世話になったのが、ドン・トマッシノで、ここを古くから治めていた、ドン・チーチョヴィトーが抹殺し、譲り受けたのである。チーチョヴィトーの親の敵だったが、それはまたで語る。その地でマイケルが雷に打たれて(シチリアの諺で一目ぼれすること)、結婚した相手がアポロニアであった。今までニューヨークで付き合ってた小学校教師ケイ・アダムスはほったらかし。アポロニアが殺された後に帰ってきてあっさりくっつくのはさすがに無理があったが・・・ その他は映画の中では詳しく説明されていないが、元警官の兵隊アルベルト・ネリに、ロッコ・ランポーネ、ファミリー創立のころからの大幹部・サルバトーレ・テッシオに、ピート・クレメンツァクレメンツァの部下には以降に本部がラスベガスに移り、ニューヨーク支部をまかされたフランク・ペンタンジェリがいる。さらにわかりにくくなってしまったか・・・
 ファミリーは当初は、長男のソニーがつぐこととなっていたが、もともと彼というのは組織の長には向かない人なのではないか? チンピラのように喧嘩っぱやく、ルカを殺したタッタリアの息子を知らぬ間に処刑している。一番下の妹のコニーが夫カルロ・リッツィーの暴力(実は芝居で、他組織に内通)にたえかねているというのを聞きつけて、私刑をしにいく途中で罠にはまり蜂の巣にされたが、この事件がなくてもいずれはこういうことがあったのではないか? カルロだってもともとソニーコニーに紹介したはずだったし・・・兵隊として立派でも、ドンにはなれんと思うのだがなァ・・・となると、もともとつぐはずではなかったマイケルが一番順当だったのか? いやいや、いくらでも他に候補者はいたはずであった。私はトム・ヘイゲンが一番だったと思うのだが・・・コルレオーネ家の血をひいていないにしろ、養子だし、弁護士という頭の持ち主である。今まで堅気だったマイケルにそんな無理をさせるよりはずっといいと思うのだが・・・しかし、世襲というのはやはり無理がたたりすぎるのではないか? 本田総一郎だって世襲制を否定し、息子には会社をつがせなかったそうである。・・・というのはやはり堅気の考え方なのか? ずっとヴィトーと一緒に暗くを供にしてきたテッシオも最後には裏切るし、カルロも裏切った。やはり血筋以外は信頼できないのか・・・? といってもの最後には兄貴のフレッドが裏切ったしなァ・・・
 「信頼という言葉達がこの国では裏切りにかわる・・・一生男を張るなら、銭のカラクリなどクソくらえ」
 という風にまっすぐに生きられないのがマフィアの世界のようである。これでは誰も信頼できなくなるわなあ・・・
 「今までのことは全部水に流そう。しかしこれからは、ファミリ-内の者に何が起こってもわしはおまえの内の誰かがやったと思うからな・・・」
 五大ファミリーの臨時会議でヴィトーは高らかに皆にこう宣言する。結局彼はその数日後に孫のアンソニーと遊んでいる最中に死んでしまう。今までの過労がたたっての死ではあるが、その意思をマイケルがついだのか、五大ファミリーモー・グリーンを大粛清する。ここのシーンはいつ観ても圧巻である。マイケルは、カルロコニーの子の名付け親としてのゴッドファーザーになることと、五大ファミリーを粛清して実質的なドンとしてのゴッドファーザーになることと、かけられているのである。このシーンは小説版では全く違う場面として描かれていた。こうしてマイケルは実質的にゴッドファーザーとなり、裏社会にドンとして君臨するようになる。恋人の異変に漸く気づき始めたケイを尻目に・・・
 で描かれるのは、ファミリー創立者で偉大なるドン・ヴィトーの晩年と、その息子の古き血への覚醒であった。権力は多くの人の欲するものではあるが、一度手にしてしまうと捨てられないものである。二人とも大きなものを守るために力を手にするに至ったが、ああ、その運命の違いとは一体何たる事だろうか・・・ここに人間と社会の違いがある。ヴィトーが生きた世界と、マイケルが生きた世界は、なぜこんなにも違ったのだろうか?