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 人間というのは、集えば必然的に衆愚になるのではないだろうか? 一人ではできない愚かしい事も平気でできるようになり、またそれを正しいと周りに主張することもできる。
外から観ればとるにたらない事で悩む様になるのも衆愚の特徴である。村社会内部の細かい構造・独自の決まり事など、外(都市)の人には興味がない、とるにたらないことになってしまうからである。牛丼屋でバイトをしていた時、お辞儀の角度が悪いといって怒る社員がいた。その会社のマニュアルで、お辞儀は45度と決められていたそうだ。でもそんな決まりは外から観れば、どうでもいいことである。 数百店舗あるそのチェーン店のどこかの店で、今日も「お辞儀の角度が悪い」「笑顔がたりない、口を横にニーッともっと開くのだ」などと言われているわけである。で、店内のポスターには、すてきな美女の店員が空を見つめ、「いつもお客様の笑顔が見たいから・・・」などとポスターが貼られている。接客業の商売の理念など股苦教えてくれなかった。まるっきりの嘘じゃん? こいつら衆愚じゃん? と、思ったのを覚えている。でも、あらゆる集団がこのように、衆愚菌に侵されていくのではないだろうか? 一つ二つの小さな組織ならまだかわいい。しかし例のような巨大なチェーン店になったらそうは考えられまい。

 しかし衆愚の中に埋没したいと思うのも、人間の性である。

 「決まっているだろう、誰でもないものにさ。これまで、さんざん、誰かでいるために苦労を舐めさせられてきたんだから、せっかくこんな機会をつかみながら、もう一度誰かになるなんて、そんな貧乏籤は願い下げにしたいものだね。君だって、まさか、おれを誰かに仕立てたいなんて、本気で思っているわけじゃないんだろう?」(「他人の顔」安部公房)

 衆愚になり、少し孤独感を紛らせたいと思うのも、人間だからである。個人にとっての衆愚への埋没は、酒と同じ様な効果があるのかもしれない。