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安部 公房
他人の顔

 *テキストは『新潮文庫 他人の顔(昭和43年刊)』による。

 ■第一章 「ぼく」の状況

  ●第一節 主人公の「ぼく」

 主人公の「ぼく」は40歳、高分子科学者で、研究所の所長代理、「おまえ」と呼ぶとの結婚八年目で、最初の子に死なれ、次の子は流産したので二人きりで生活している。顔に焼けどを負ってからは顔に包帯を巻き、妻との会話はぎこちないものとなっている。と、手記には書いてある。

 「やがて、解き終えたところから、わがもの顔に這い出してくる、蛭の塊り・・・・・・からみ合い、赤黒く膨れ上がったケロイドの蛭・・・・・・まったく、なんという醜悪さだ! ほとんど・・・・・・日課にして繰り返していることなのだから、もうそろそろ馴れてくれてもいいように思うのだが・・・・・・」(P13)

 アパートS壮に来て初めて包帯をとったときの記録である。この後にも鏡の前で包帯をとり、なげく場面はよく出てくる。それらを読んでみると、相当ひどいケロイドなのだろうと想像される。だが、が、他人の前でケロイドの顔を見せる場面は、銭湯で刺青男とこぜりあいになり、仮面がはがれる時(P213)以外、一度たりともないのである。その時は周りも見ずに、急いで仮面をかぶり直す。K氏に相談に行った時、K氏が「とにかく、包帯をとってみていただきましょうか。」(P32)と言った時、あわてて男は逃げ出そうとする。これはが、火傷のことを悩みとしていつまでも客観化できないことの現れではないだろうか? (もっとも、P14で男は研究所で明るく振舞っているが、これは火傷の悩みを克服」できたからではなく、飽くまでも克服できないゆえの強がりである)その証拠に、「黒人問題は、重大な社会問題になりえても、ぼくの場合は、あくまでも個人的な枠にとどまり、そこを一歩も出るものではありえないのだ。」(P260)と、手記の最後の方まで書いている。顔の火傷を悩みとしてうちあけたのは、この手記が一番最初なのだろう。

 次にの人間性について考えてみたいと思う。は物事の本質やアイデンティティーを隠したりごまかしたりするのを嫌うようである。

 「うまく言葉では言いあらわせないが、ぼくはそのかもじに、なんともいえずに卑猥で、不道徳なものを感じ、あるときこっそり、火にくべて焼いてしまったのだ。(中略)ぼくは正義を行ったつもりだったのに、いざ詰問されてみると、なんと答えたらいいのか分からず、ただもじもじと赤面するばかりだった。」(P19)

 他にも、化粧が嫌いであるとか、違う帽子をかぶった二人の父親の顔を、「人間関係における、許しがたい虚偽の象徴」ではないかということで、何十年も覚えていたりする。

 だがもしそうだとすると、他人の顔の仮面を作り、「おまえ」をあざむこうとするのは素顔に嘘をつくことであるから、心にひっかからないのか、という疑問が生まれてくる。どうやらの中には、自分のアイデンティティーを隠すべきではないという気持ちと、それに相反する「誰でもないもの」になりたいという欲求があるようだ。

 「これまで、さんざん、誰かでいるために苦労を舐めさせられてきたんだから、せっかくこんな機会をつかみながら、もう一度誰かになるなんて、そんな貧乏籤は願い下げにしたいものだね。君だって、まさか、おれを誰かに仕立てたいなんて、本気で思ってるわけじゃないんだろう?」(P152)

 二つの気持ちのぶつかり合いが、作品を複雑化させている。いや、逆に二つの気持ちがぶつかりあったからこそ、にこの手記を書いたのではないだろうか。「ぼく」「おまえ」を仮面でだまして誘惑したが「おまえ」「ぼく」という夫がいながら、あっさり誘惑されてしまった「破廉恥漢」ではないか。これでおあいこだな、という意味のである。