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 「お~いおまえ、この頃調子はどうだねぇぇ~♪」(長渕剛「友への手紙」)


 知人から届いた手紙を紹介しよう。こんなものを公開してどうするんだよと言われてしまいそうだが、自分を見つめなおす事と、当時と比べてどう変わったかを知るにはいいかもしれない。送った本人には都合が悪いものではないし、何より私の「非」の部分が書いてある手紙である。

 大学三年の春のこと、私は初めて自分のオリジナルの脚本を書いた。自信満々だった。これで世界は変わるとまでは行かないが、かなりの大きなショックを周りの皆に与えることができるだろう、そう思っていた。ところがその脚本は公演の戯曲選考会で落ちてしまった。私の味方をする人は誰もいない。何て周りの人間は芸術を理解しない、お莫迦さん連中なんだろうと思った。まあ、ただ単に私の戯曲がつたなく、一人よがりのものだっただけだが・・・で、本手紙は、戯曲を執筆した後、もう引退した先輩にいただいたものである。読んでいただければ、私の戯曲がどんなものだったかわかるはずである。


 久しぶり。

 脚本執筆ご苦労様。

 今日はとある人から君の脚本を手に入れました。選定会議じゃ、「Jさんの影響が」とか言われたらしいし、まあ君が脚本を書くことを待っていたし、まあ一言言わせて貰いたいなと思って、パソコンを立ち上げました。

 この脚本の最大の弱点は、まず書き言葉から脱却できていない点にある。あれでは役者は言葉にできない暗号を読まされてしまうのと同じで気持ちが乗ってこないよ。それと、随分観念的な脚本だな。昼メロと同じ感覚で読めた。ただし昼メロは、暇な主婦達の観念を物語にして提供しているのに対して、この脚本は君自身の観念が生んだ産物である。この点が大きい。君にしか共鳴できない観念が多すぎた。脚本家は見る者達への共感か、嫌悪を与えていかなければならない。脚本家は供給側の人間であり、ある種客達の上を行く存在でないといけない。が、はっきり言えば、この脚本では観客の方が上である。

 では、なぜそんなふうになるのだろうか?まず題材に問題がある。僕が知っている君が扱う問題にしては不適当すぎる。君が恋愛のことを語るには君自身の経験が少なすぎる。僕も人のことは言えないが、観客の方が君より恋愛の経験が相対的に豊富だ(はっはっは、よく言うね。知らないくせに・・・)。だから、現実を知る人間から観れば、あまりに滑稽に映ってしまう。よって、脚本家と観客の立場が入れ替わってしまうのだろう。ストーリーの展開などは荒削りではあるが、悪くはないんだ。だからこそ、自分が自信持って書けるテーマにしなきゃ、背伸びをしてもいい脚本は書けない。僕はいつも等身大のテーマを選んできたつもりだ(うーん、等身大ねえ・・・まあ、それでよしとしておきましょうか)

 そして、これは脚本家としての欠点として、君に克服して欲しい事だ。現実を直視しなさい(まあ、それはその通りである。これから数年、少しは成長したかな・・・)。君が思うほど現実は単純じゃない。この社会はもっとハイブリットな文化を備えている。この脚本で描かれる恋愛観にしろ何にしろ、中世的な感覚を覚えた(私は何時代の人間ですか?)。ある作家は言った。「作家とは、いい意味では観察者であり、悪く言えば悪魔だ」と。君は君は色んな作品に触れているが、それらは全てフィクションであり、リアルじゃない。まず、リアルをもっと極めることだ。そして、それをフィクションというフィールドに持ってきて遊ぶ。それが正しいプロセスだと思う(「現実と物語は、結局一番何が違うか?」で触れている、現実の虚構化というやつである)。もっと、今の社会で起こっている様々な現象を観察しよう。そこから、そこに生きる現代人の考え方やライフスタイルが見えてくるはずだ。ただでさえ、人々は疑問ばかりを持ち、答えをどこかに求めている。そんな答えを正解とは言えないが、提示してあげられることがこれからの作家には必要なことだと思う。そのためには、まず観察をすること。そして、それに対して答えを持つこと。何だっていい。ツーショットダイヤルなどの電話風俗の蔓延。脳死判定の問題。トピックはいくらでも転がっている。僕はこのところ、よく街に出ている。街を歩くと、この社会の風に触れることができる。それがものすごく大事だと思う。閉鎖的にならず、もっと色々と興味の輪を広げていってください。それでは、春公演のご健闘をお祈りしています。また、現役の劇団員たちにどうぞよろしく言ってください。Jは二ヶ月へこんですっきりしました。そして、何より演劇を愛してると。

                        一劇団員 J

 

 いい先輩だ。当時の私の弱点がすべて入っていた。どれだけ変わっただろうか? まず、広い興味を持つようになったのは、本ブログ読者ならばわかっていただけるだろう。街に出ろとは言うが、それは昔からやっていたことである。こう考えてみると、けっこう変わってきていることがわかる。不連続な差異」というのはこういうところにあるのかもしれない。過去の検討は必要なものである。答えを探すのは無理だとしても、手がかりのようなものはあるはずである。

 さんありがとう。一時期喧嘩もしたけれど、今はもう何とも心残りはないよ。というより私が幼稚すぎた。あなたの二通目の手紙を読んでその事を痛感している。またあなたの公演で会おうね。再見。