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 共同体思想というものがある。まあ平たく言えば仲間主義みたいなものだ。仲間のために動けば、戦えば、人は何倍も強くなれるという考えだ。その仲間というのは、状況と場合によって違うが、家族だったり、恋人だったり、会社だったり、組織だったりする。共同体の定義の中からは、国はちょっと外しておこう。これはちと大きすぎるし、何を持って国となすかは国によって曖昧だからである。日本のように明治に入ってから「天皇を中心とした・・・」と、でっちあげられて作られた人工国家は、国の共同体そのものが嘘、「日本人」というでっちあげだからである。しかしこの共同体思想、最近あまり信用できないものになってきている。消費の概念が特化しすぎてきたからだろうか? クラブのような場所ならいい。共同体思想を消費する場所としているからである。問題なのは、永く続くはずの共同体が消費されるということである。すなわち、家族恋人のために必死になっても、別離・離婚・家庭崩壊があったり、会社組織のために必死になっても、リストラがあったりする。

 かくいう私にもそのような経験がある。上記のような共同体と同列に加えるのはおこがましいかもしれないが、「逆恨み(3)」に挙げたような、と同じ様な共同体思想を称える、家族賛歌の芝居を私も作った事がある。しかしその芝居を作った結果逆恨みされ、私からは仲間と呼べる共同体は去っていってしまった。観ていた仲間、出演していた仲間は、誰もその物語の中には還元されなかったのである。観ていた仲間はその共同体の中に還元されなかったことを悔やみ、出演していた仲間も、その中で孤立し彷徨っていた。散々嫉妬の対象となった私すらもその中には還元されなかったのである。いや、もともと共同体なんぞなかったのではないか? 組織とは他人の集合体である。たまたま同じ時期に同じ場所に集まっていただけのこと、単なる機能集団を、変に理想化しすぎた結果がこうなのかもしれない。「物語は観ている人、出演している人達のの入っていけないところにある」と思うに至ったのは、この事件があってからである。しかし、そうとわかりながら、なぜ人は共同体思想をそれほど掲げるのだろうか?