定義はあるのか? ということで考えてゆきたい。一体具体的には何が違うだろうか?
まず現実を観ておこう。現実には立体構造がある。別のところで起こった事象と、その他の別の事象が深いところで綿密に結びついていたりする。何かの事件や、商品の宣伝の仕方、株の値動き等々が密接に結びついているのはいうまでもない。その立体構造のある世界で、人間の感情・夢を追う人・人を騙そうとする人・騙される人・真実を追求しようとする人・人を助けようとする人・何も考えていない人・等々がひとつの場所に同居して、巨大な迷路のようになっているのが現実である。だから、「私はこう思って~やった」というのが、全くの誤解にだってなりうるのである。そんな現実に、できるだけ似せて作ったのが「リアルな物語」ということとなる。よくできた物語である。また、その現実から外れて、その世界に生きている人の夢に向かう物語もある。こちらは少し嘘が入っていたとしても、観る人に生きる活力を与える分いい事もある。
もともと物語というものはその「よくできた偽者」を目指すのが目的だったが、ここ最近(10.20年くらいか?)になって、その現実のコピーを目指さないものが出てきた。もともとが虚という物語である。コピーのコピー、あるいはそのまたコピーである。サブカルチャーというのだろうか? 「他人の顔」(詳しくは本ブログの書評をみてください)に出てきた言葉を借りるなら、現実という素顔をよく見させるために被せる仮面がもともとの物語だとすると、サブカルチャーは仮面に仮面を被せていることとなる。
「虚数という数がある。二乗するとマイナスになってしまう奇妙な数だ。仮面もそれと同じで、仮面に仮面を被せると、逆に何も被っていないのと同じになってしまうのではないか?」(「他人の顔」より)
まあ物語は面白ければいいといえばそれはそれでいい。別に現実を生きる上での答えへの足がかりにならなくてもそれはそれでいいというのならば、何も問題ない。逆にそれよりも問題なのは、現実そのものがサブカルチャー化してしまったことである。物語よりも嘘くさい現実というのは、在り得ることである。
10年前世間を騒がせたオウム真理教の事件を見たまえ。彼らは本気でハルマゲドンを信じていたのだろうか? 教義も格好も嘘臭い麻原に、大の大人がコロッと騙されてしまったのである。東大京大出のエリートが、サリンを製造し地下鉄でバラ撒くなんぞ、事件が起こる前では誰も嘘臭くて、物語にしようという作家・映画監督の類はいなかったはずである。アニメよりもうそ臭い。事件が起きた周りの反応もまた基地外じみている。入信しようとする若者、上祐をタレントか何かと勘違いして追っかける上祐ギャル、報道も全部オウム一色になったこともあったな。ビートたけしは著作の中で、「ハルマゲドンよりもひどいことがもうすでにおこってるんじゃねえのか?」といっていたが、全くもってその通りだと思う。
最近の殺人事件のニュースを見てみると、大した動機がない。「ムシャクシャしたからやった」「人を殺してみたかったから」等、それっぽい、深い理由がないのである。サスペンス劇場でそんな理由だったとしたら、観ている人の推理ができない。作り物の方の人間の方がよくできていることになる。現実の殺人者は、サスペンス劇場の脚本を書く作家の、想像を越えて幼稚だということになる。
9.11のテロもそうだ(このテロがアメリカの自演であるという意見があるが、それはとりあえず考えない事とする)。オウムの事件と同じで、あの事件が起こる前では誰も嘘臭くて、映画にしようという人はいないだろう。まずプロデューサーの許可が下りない。「戦争と平和」の中でビンラディンを観た富野氏が、「何だ、育ちのいい麻原じゃないか」と言っていたが、それもそうである。麻原がアニメ等のサブカルを巧みに利用したように、貿易センタービルへの飛行機でのダイブはハリウッド映画の一シーンのようだ。それに対するブッシュの発言は、三文アクション映画の宣伝文句のようだった(「ゲームは終わりだ」だったけ?) し、ブッシュの応援には当時カリフォルニア知事に当選したばかりのシュワルツェネッガーが駆けつけたし(最近はどうしてるのだろうか? いい話は聞かないが・・・)、イラクに戦争ふっかけた理由もよくわからない。
というよりブッシュそのものが一番嘘臭い。薬やったことあるし、飲酒運転でつかまった事が何度もあるし(それも30こえて)、学力も小学四年生レベル(アメリカの場合学力低下が騒がれている日本のレベルではない。日本人はひらがな・カタカナ・漢字・英語等たくさんの文字・語彙を覚え、知らず知らずのうちにたくさん頭を使っている。しかしアメリカの場合は、アルファベット26字だけである。失読症の人を差別するわけではないが、でもその程度の学力の人がこういうポジションにつくのはおかしい)なわけでしょ? だめじゃん?
でもそうなると、サブカルチャーが幅を利かせるのもよくわかる。日々変わっていく現在においては、もともと現実に「これ」といった構造なんてないんじゃないのか? 「非現実よりも非現実的なもの、それが現実だ」と安部公房は言っていたのがもう30年以上前になるが、そう思える節で現実はあふれかえっている。もつれた糸がさらにこんがらがって、どうからまっているのかがわからなくなってしまったのだろう。なるほど、ハルマゲドンやジ・ハードでも起こして、スッキリさせたいというのは、あながちわからなくもない。