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  水戸黄門はなぜ何年もシリーズ化する長寿番組に成りえたのか。何人もキャストが替わりつつも、受け継がれて来たのか。まあ、話自体はフィクションであることは知っている。実際に諸国を廻ったのは、助三郎のみだったと言われている。 (実際の黄門様どうだったかは詳しくは知らんので変更)普通権力者は、印籠を見せびらかし、肩を切って歩く。しかし、黄門様は最後に印籠を見せつけるのである。まあ、親方天下の時代劇では最後に印籠を見せ、「天下の副将軍」であることを見せつけなければ、田舎爺が悪代官に逆らったということで、正義を主張できないわけだが、この印籠とは何だろうか?

 印籠に興味のない中身がいいだけの人はいくらでもいる。しかし中身だけの人は、どんなに道徳を語ろうと、実存が伴わず、スゴイ人には見えないだろう。いい人は無能の代名詞という点はここにある。逆に上っ面だけを整える、印籠をでっち上げる人(ヤクザがそうだろうが)がいる「詐欺師程豪華なパンフレットを作る」という諺がある。まあ、歴史上名の残る権力者の中にはそのような人(これだけいい人の名が残っている本物の光圀もそうかもしれないが・・・)は多いかもしれない。まあ、中身だけの人よりは、他者承認のついてくる上っ面印籠でっちあげ人間の方がいいだろう。だが、大きな分類でいうと、人間というのはこの二者だけだろうか?

 昔は、いかつい顔をした猟師がたくさん居たそうである。特に際立った印籠をでっちあげることもなしに、立ち振る舞い、仕事への取り掛かり、等々、しっかりとした人間の「型」がある、己だけのオリジナル紋所を持った印籠人間がいたそうだ。無論今も探せばいるだろうが、あまり目につく所にはいない。無論印籠人間は自己の存在をあまり主張することをとしとはしないので、歴史には残らないだろう。作品内の黄門様(本当の光圀がどうかは知らず)も、副将軍かどうかということを抜きにして、印籠人間的な要素があったからこそ、いくらマンネリといわれても今まで残り続けたのではないか。さらに言うと、印籠人間は、たとえ印籠を持っていたとしても、見せないのが印籠人間だろう。印籠人間は、印籠を掲げて人を平伏させるのを良しとしない。「ああこの人はスゴイ」と、その人に会う人、話す人が自然と思うからである。

 更に人間の種類にはもう一つある。「硝子の印籠」を掲げる人達である。価値のないものに無理矢理価値をつけ、それをさもすごい社会的印籠のように見せびらかし歩く人達だ。アンデルセンの「裸の王様」はまだいい。権力という実際の印籠があるから、いくら民衆が裸だとわかっていても、黙らせることができた。しかし、硝子の印籠を掲げる人の中には、社会的印籠がない人たちがいる。この人達はどういう人達なのだろうか? 印籠でっちあげ人の変形した、亜流の型なのだろうか? 他者性がないからだけだろうか? 印籠違いに「気づかないだけなのか、まあ、ナルシスト芸術家がこのうちの一人だろうが・・・

 

 「あれえ、あんたの印籠、なんか煤けてるぜ。」

 

   という場合にご注意を。

 さあ、あんたの紋所見せてくれよ!!!