アメブロアプリダウンロード!アメブロのアプリを、iPhoneにダウンロード。なんかひとつ、達成感。。。春以来、まったく更新してなかったことが、プティなストレスになってる部分もあり…これでちょこちょこ、書けるかな。書きたいな。家に帰ってからの時間、仕事以外でパソコン立ち上げる余裕はまだ…ないのでー。まだ、まだまだ?
新生活、想い徒然、センチメンタル。ちょうど1年の育休があけて、仕事が始まって、子どもの保育園が始まって、桜はとうに散って、4月も折り返し地点を過ぎた。毎日スーパーに買い物に出かけていたこととか毎日子どもと一緒にお昼ごはんを食べていたこととか平日にベビーカーを押して東京中を歩き回ることとか子どもの遊ぶ様子をじっくり見つめていたこととか子どもがお昼寝する時間を楽しみにしていたこととかそういうこと、もう10年も前のことのように、思い出せないくらいに、すっかり遠くなっちゃった!人が生きている時間は、絶え間なく流れていて、昨日のわたしと今日のわたしは連続的であるのだけれど、昨日のわたしと誰かとの関係、何かとの関係は、結構、すぱん!と溝ができて、決して同じにならないというか、そういうことがあるって思う。それをすごく、実感している。3月31日~4月1日にかけて、保育園の入園準備と、自分の出社準備で、夜中じゅうあれやこれやと作業をしている間、ふとした気分になり聞いていたのはNorah Jonesで、アルバム『Come Away with Me』をずっと流していた。もう10年以上も前に、大学を休学して1年間アメリカに留学していたとき、帰国する日にも聞いていた、思い出深い歌声だ。そして、あの日とこの日との共通点が、結構あるなぁって、気づいたのだ。今思えば。限られた、1年という時間。終わりが来る日を知っていた、1年という期間。何もかもが初めてのことばかりで、緊張とときめきと疲労に満ちていた感じ。短さを感じてゾッとする瞬間と、間延びした時間を過ごす一日と。自分の居場所が、ここにあるのにここにないような、気ままさと、居心地の悪さ。味わい尽くさねばと思うほどに毎日はただひたすらに過ぎてしまって…わたしの人生を決定的に変えてしまった濃密な1年、そんな時間との永遠の分断への、センチメンタル。ずっと一緒にいたいけど、ずっと一緒にはいられないこと、なんとなく分かってた、人。1年が終わりました、という瞬間に始まる、むしろ地に足のついた生活。古くて新しい毎日への、憂鬱と、しかしながらの期待。新しい毎日ではそれなりに、「元居た場所に戻った」はずなのに、まったく同じではない関係性…それは、自分も人も少しずつ変化したから…にまみれて、安定なのか不安定なのか、それなりに浮遊した気持ちのまま、もがく日々が始まるわけで。今、わたしと子どもの関係性も、まったく変わってしまった実感があって、恋人との別れくらいの勢いで、戸惑うような、焦るような、しかし最初からこうなる運命だったような不思議な感覚で、浮遊した気持ちのまま、もがいています。例えば日本とアメリカ、みたいに、物理的にまったく存在が見えなくなってしまったわけでは全然なくって、今日だって一緒にお風呂に入って、一緒のお部屋で眠るわけだけれど。だけれど、子どもと24時間べったり一緒にいたのが、マイナス10時間くらいいきなりなくなってしまって、目の前に彼がいても、やっぱり、まったく違う存在になってしまったような感じなのだ。子どもに関して言えば、いつかは離れていかなくちゃなんないんだから、それが0歳なのか1歳なのか、3歳なのか、6歳なのかっていうだけでさ。1年じっくり一緒にいられたのだから、幸せだったよね、なんて、自己満足で思ってみたりするのだけれど、こうも関係性が変わってしまうと、ふたりにとって、もはや何が幸せなのか分からない。そして 今を幸せに思うことなくては、もはや何も幸せでない気もする。子どもと10時間離れた最初の日、「とうとう離ればなれだね」と、暗い部屋で授乳しながら大げさに話しかけてみたところで、ふと、気づいてしまったのは、わたしと赤ちゃんは、彼が生まれたその日から、永遠に離れているということだ。へその緒が、チョキンと切られたその瞬間から。こうなる運命だったのよ、やっぱり。新しい関係を、どう築いて行こうか、へその緒だけじゃ、おっぱいだけじゃ、繋いでいけないわたしたちの距離。(体だけの関係じゃない!ってやつ!?)こころを通わせていきたい。会えない時間で愛を育んでいきたい。次の「関係性の溝」ができちゃう、そのときまでのタイマーが、知らない間に、きっと動き始めてる気もしてる。(…こういうの、子どもが「男の子」だから、特別にそう思う、ってことも、あるのかなぁ??)10年前とか、今回みたいに、はっきりと「1年」というのがあるわけじゃないから、それこそ、厄介かもしれない。気づいたら、変わり始めているかもしれない。そのときを、自然に迎えられるような、毎日を紡いでいきたい。どうやったらできるのか、全然分からなくて、不安になって、トゲトゲして、チクチクしてばかりだけれど。新生活、昨日と今日の自分、自分たちを、丁寧に繋ぎたいと思う気持ちを記して。
温泉に行くとセンチメンタルになるわけ。先日、帰省していた際に、2日ほど続けて温泉に通った。家の近くは、比較的温泉が湧いている地域のようで、銭湯感覚のなんの飾り気もない温泉が、ちらほら、ある。そういう地元の温泉に行くと、女の一生を垣間見ることができる。基本的にはおばあちゃんが多いのだけど、お友だちと来ている人一人で来ている人温泉仲間のいる人幼子を連れた母親思春期くらいの母子連れ肌の張りとか艶 皺 太っている人 瘦せている人曲がった背中 大きな胸 小さな胸髪の長さ 濃さとか垢する人歯を磨く人がさつな洗い方 丁寧な流し方すたすた歩くよたよた歩くよちよち歩くサウナに出たり入ったり水を飲んだり 水を掛けたり気の緩んだ表情プライベートな決まり事毎日の習慣東京中の電車の中吊りに溢れているような、キラキラした(ほぼ)裸体やツルツルした笑顔とは、全く違う、リアル。生き抜いてきた(いる)感じの、息抜いてる瞬間がそこにあって、みんな動物として素になって 平たい感じ、等しい感じになっている。わたしは、こういう温泉に来ると、何がどうなっていようとも、みんな、ここに生きているし暮らしているんだよなという自明のことが、すんなり感じられて、「プライド」なんてものを持っている自分を恥じてしまうくらいの、素っ裸になってしまう。きゅうんと不安になって、恥ずかしくて膝を抱えてしまうような素っ裸。開放感のど真ん中の、心の気恥ずかしさというのでしょうか。もっと堂々と構えて生きたいなという気持ちになる。だって、人生は短い。こうやって毎日のようにこの温泉に通っているおばあちゃんのうちの誰かは、例えば半年後の同じ時間、ここにはいないかもしれないと、不謹慎ながら思ったりもする。亡くなったわたしのおばあちゃんも、足しげく通っていた温泉なのだ。彼女の温泉友だちも、この中にいるかもしれない。もう誰も、来ていないかもしれない。覚えていないかもしれない。それでも温泉は湧き続け、人びとは通い続け、一日身にまとったあれやこれやを洗い流して、空っぽにして、死ぬまで生きる。観光地の温泉だと、老若を問わず"雰囲気的に”ぴちぴちしているので、そういったしみじみした雰囲気は皆無になる。だから、こんな風に思うこと、殆どないのだけれど。そうして、こういうぼんやりした微睡みが脱衣所に戻った瞬間に、ユニクロの下着や、ブティック風なカーディガン、化粧水、メイク道具、ブランドもののバッグ、そんなものでパッと覚醒されて、ちょっとした欲望が復活して、日常に戻る感じもまた、独特。粛々と、現実は続くなぁ。歳を重ねて行くなぁ。