子どもに、どうしても何かをしてもらいたい時、

おとなは、「脅し」の手段に出る。

 

…のは、結構多くの家庭でやっているのじゃないかと思う。

 

大体、「こわいもの」がやってきて、

イヤイヤしている子どもとか、

“言うこと”を聞かない子どもとか、

約束を守らない子どもとかを、

◯◯しないと、△△されちゃう(なっちゃう)よ、

というストーリー展開において、行動に結びつけるというもの。

 

「恐怖訴求」→親以外の第三者によるエンドースメント(ちょっと矢印の方向違うけど)→回避策(アクション)…

立派なフローが…

(でも、「なんでなんで?」攻撃をくらうと厳しいこともあり、「根拠」や「メリット」を十分に用意しておかなくてはならないですね。。。)

 

この「第三者」が、何者か、というのが重要であり、

年齢とともに変化するというのが難しく、

一体いつまで、どのくらい、通用するのか、というのが、わたしの最近の関心事である。

 

例えば、

歯磨きさせるには、かの有名なバイキンマン

…しかし最近、ちょっとくらい歯磨きしなくてもまだ虫歯になってないことに気づいてきた

 

夜9時に寝せるには、「クジラ」という謎のおばけ(←我が家オリジナル)

…しかし最近、21時に寝なくとも、特にこわい思いをしていないことに気づいてきた

 

泣き止まないときには、秋田名物なまはげ

…しかし最近、なまはげが被り物であることに気づき、「なぐごはいねが〜」的なモノマネまでできるようになってきた

 

 

世の中には、“ほんとっぽさ”を演出するために、「鬼から電話がかかってくるアプリ」とかも存在するらしい。

けど、こんな調子で大人のからくりを見破るようになってくるとなると、

アプリ使って演出してた…なんてバレるのも時間の問題かと思い(その時のうまい言い訳が思い浮かばない)、

ウチではその禁断のツールに手を出さないまま、

「鬼」がこわい時期も、とっくに過ぎてしまったような。

 

 

よくしゃべり、周囲の状況もほぼわかるようになってきた3歳児。

 

 

そんな彼が、長らく、ずっと怖がっているもの。

それは、雨風(嵐)や雷(かみなり様)。

 

 

今夜も、東京では雨が降っていて、

通りを行く車のタイヤがアスファルトに擦れる音が、雨の激しさを増長している。

 

悪天候の日は、「お風呂に入って、早く寝よう」という流れが、

とってもすんなりといく。

 

雨の音、風の音、…時々雷。

そういうものが、本当に、怖い様子。

 

これは、もっと赤ちゃんの頃から、今まで、ずっと変わらない。

 

窓から聞こえる雨の音、風の音にとっても敏感になっていて、

「こわいねぇ、嵐だねぇ、いやだねぇ」

と、本当に心細そうに話して、

「朝、起きたら、嵐どっかに行っちゃう?」「埼玉とか?(←ちょっと北)」

と、だいぶ心配している。

 

「嵐もかみなり様も、眠っている間にどこかに行っちゃうから、目をつぶって、さぁ、寝よう?」

と提案すると、すんなり、お布団に向かうのである。

(そして、眠るまで、ぶつぶつと心配している。)

 

これに加えて、

最近では、

お風呂に入りたがらない息子に対し、

実家の母が上京して子守をしてくれていた時に発明(?)した、

「かみなり様は、冷たいおへそが大好きなのよ」

が大ハマリしていて(以前から、「かみなり様はちびっこのおへそが好き」という話をしていた…この「かみなりにおへそを取られる」的な言説って、日本だけ?)、

天候にかかわらず、ここ数週間、お風呂には積極的に入り、湯船にも浸かるようになった。

 

お風呂から上がると、

「もうおへそあったかいから、取られない?」

と安堵感。

 

 

おばけや鬼と違って、

雷や雨や風は、

目で見たり、耳で聞いたり、触ったり(濡れたり)、体で感じるもの。

(おばけも、感じる人はいるでしょうが…一般論として…)

 

 

何よりも説得力があって、何よりも絶対的な感じ。

 

 

威勢良く張っていたものが、「しゅん…」と、しぼむ、感じ。

 

 

「自然への畏怖を抱かせること」が子育てにとって大事…

とは、いつか読んだ育児書的な本に書いてあったけど、

子どもは直感的に、自然というものをとらえ、

その「本物らしさ」に、「本当に怖い」という思いを抱くのだろうなと思わされる。

(そう考えると、大きな地震などを経験した子どもたちの心の傷、トラウマは想像を絶するものだろうと、心が痛い。こんな、「子どもに何かをさせよう」なんていう動機づけのために自然の怖さを提示していられるくらいの平穏さを、鑑みる。)

 

 

この「自然への畏怖」のようなものが、

大人になると失われ、

自然を恐れるというよりは、

ただ「人」を怖れ、「人の考えること」「人の振る舞い」を怖れ、

自分を怖れ、

人の論理で動き、動かされ、

傲慢になっていくのは、

自然から離れた街に暮らしているから?

“自然的でないロジック”が、この社会を回しているから?

 

 

例えば、震災のこと、その時に感じた恐怖や畏怖を、

人工的な毎日の中で、忘れてしまってはいないかということも。

「大事じゃないもの」に、してしまっていないかということも。

 

 

わたしは子どもの頃、何が怖かったか?

 

 

親でも、先生でもなく、

お金でも老いることでも、

何かを得ること失うことでも、なんでもなく、

夜の星空だったことを、思い出す。

 

北海道のちいさな町で、

真っ暗な夜空いっぱいに広がる無数の星に、

自分のこと…悪い考えや行い…を隅々まで見張られているような気がして、

ものすごく、怖かったこと。

 

 

自然と行き来することは、

自分の内面や、「永遠」と行き来することで、

うわべを通り過ぎていく瞬間的な善し悪しではないものを、

感じられるのかもしれない。

 

 

雨が降って、

保育園のお迎えが嫌だなぁ…とかそういうことだけでなくって、

ただ、雨を感じる、ということも、大事かもしれない。

 

 

誰かや何かを怖れて、つまらないものになっているかもしれない自分を、

解放するきっかけとして。

 

 

ちなみに、

息子が最近非常に怖れているもう1つのもの…

 

それは、ゴキブリ。

 

最近、保育園で初めて遭遇したようで(不衛生とかそういうこともあるかもしれないけれど、古い施設なので仕方ないかなと…)、

その時の出来事がだいぶ衝撃的だった様子。

(本人の実況のみがソースだけど、想像するに、かなりの大騒ぎになり、おそらく先生がスリッパか何かで叩いた、それを、彼はドアの影からこっそり見ていた。)

 

もし家にゴキブリが出てきたら、どう対処したらよいのかを、

その日以来、度々気にしており、

スリッパに代わる武器が家にあるのかをだいぶ心配している模様。

(わたしも、心配になってきた。。。)

 

 

そして、それまで全然片付けなかったおもちゃの類を、

「お片づけしないとゴキブリが出てきちゃうんだよ」「ゴキブリは汚いところが大好きよ」

と言うと、片付けるように(少なくとも素振りは見せるように)なった。

 

 

人間が、ゴキブリを恐れるのは、太古からの経験によりDNAに刻まれているとか、なんとか。

 

ゴキブリ=虫、だと思えば、これもまた、「自然」的な恐怖とも言えるわけで、

そういうものへの怖さほど、やっぱり、身に堪えるものはないのかもしれない。

 

 

子どもへの脅しは、

大人への脅しでも、あるんじゃないかな。