お部屋の拭き掃除をしていて
雑誌類なんかを傍らに置きながら
「真似る」という行為について考えが及んだ。


いつから人は「真似る」ことを当然のことのように行い
真似ることで社会性を身につけていくのだろうか
ということについて。


雑誌なんかはその典型で
モデルさんが着ている服とか身につけている小物類、そしてメイクの方法。

◯◯系とかそういう系譜。

お給料を貰いたての社会人たちが
こぞって買い求める、似たような(或いは、まったく同じ)バッグやお財布や時計。

”かぶって”いて、気まずい、というよりは、
同じ種族として 同じステータスを分かち合うものとして
社会集団的に認め合うような
そういう雰囲気というか習わし。


子どもの頃は、何だかそうじゃなかった気がするのです。


もちろん
大人を真似て、何かを覚える、ということがあっても
例えば仲間内で、誰かを真似る、ということは
むしろ
嫌なことであったような、そんな気がするのです。


しませんか?


だれそれは、いっつも人の真似ばっかりするからキライだ!


なんてことが
嫌われっ子の理由だったり
しませんでしたか?


真似しないでよ!


って
喧嘩したりとか。


しませんでしたか?


真似された!


って
泣いた子を見ませんでした?


例えば、お絵描きの時間の、
書いたものとか、使った色とか、そういったものへの
自分の「オリジナリティ」について
そういう言葉を認識していなかっただろうけれども、
しかし
それぞれに、強い拘りがあったような、そんな記憶。


子どもの頃はきっと
社会性とか集団とか仲間意識とか所属意識とか
そういうことから
本当に本当に自由な時間が
誰にもあったのだろうなと思う。


いつの頃からか
「個性」
を誰かから押しつけのように言われないと
意識できないような状態になっていって
それは
「個性」が大人になる(のに必要な)ことと
相反し始めるからなのかもしれない。


社会の仕組みは
誰かが誰かを真似続けることで
回るように
できている。


この矛盾。


その矛盾の
ナイーブさに、
大人は時々はっと気付いて
夢を見るのかもしれない。