カタチ に寄らないものをリスペクトしている

が、しかし、

世の中には カタチ が溢れている。


なぜなら カタチ は相当に便利なものなので
カタチ が好きな人はたくさんいて
カタチ によって
わたしたちは判断をしたり されたり する。


ところで


「家族」はカタチなのか、否か。


「家族みたいな存在」という言い回しは、
恋愛関係あるいは”婚姻関係”にない男女の間において、
時にネガティブな、
いや、むしろ相当にネガティブな、
響きを持つけれど、
一体それが本当にネガティブなのかどうか、
その基準というのはわかりません。


「いろいろな家族のカタチがあっていい」

とも、よく言われる。
時に知的な響きを持って。


しかし


それでもやっぱり カタチ なのか。


婚姻関係にあることが前提にあっての カタチ なのでしょうか。


愛情の最終「形」が結婚なのではない。



分かっている人はたくさんいても
実行している人はそんなにいない。



やっぱり、便利だからかな。



説明する必要のないことであっても
説明を求められる場面に出くわすことが多く
カタチにはまっていないと
カタチにはまれない人だという判断がくだされるのが
世の常、
家族のテーマに関わらず。


面倒くさい


正直面倒くさい
でも面倒くさいというので片付けられないのが
人の間で生きる人間の
世の常。


ってなことを言っていたら
内田裕也さんに
「うだうだ言ってねーで 行動しろ!」
って喝入れられるのかしらねぇ?



古巣・ゼクシィの新しいCMが話題のようで、
なかなかに素敵です。



そう、根本的には
"Get old with me"の目的を達成する手段は
いくらでもあって
その道のりはRock'n'roll。


家族に限らず
真に自由なカタチ を 創る作業は
時に孤独なRock'n'roll。


職業でもいい
性別でもいい
ライフスタイルなんていうものでもいい


なんでもカタチに落ちるとして


簡単に判断されないカタチを
自分の中に 間に 創っているんだ、
本当は。


外から見たカタチと
内から見るカタチと
そういうものの違いに
戸惑って
悩んで
いるだけなのだ、
きっと。