$Rollingcatの越境レポート。

昨年の暮れくらいから、書道のお稽古を再開したのです。

12歳のときに、一旦区切りをつけた日本習字さんで、
およそ18年ぶりの修行再開であります。


墨の匂いは、いいですよね。


何しろ、脱臭効果があります。
(新年早々、チチが旧友を呼んで飲んだくれた…
還暦oyagisが、挙げ句「雑魚寝」して朝食までとって帰ったという
ヒドい惨状の部屋ですら、書をしたためた後には、さぁどうでしょう、
アルコール臭も、ヤニ臭も、一気にクリア!)


ドタバタで疎かになっていた3月号の課題のひとつが、
なんとなく今の気持ちにしっくり来て、書きながら、
震える。


「人世(じんせい)長夢(ちょうむ)の如し」
(意味:人の一生は、長い夢のようである。)


昨日、想像力、について書いて、
自分にできることのひとつ、について書いたけれど、
実際、
自分にできることはそれはそれで事実だけれど、
大切な人を亡くしたり、未だ連絡がとれなかったりしている状態の悲しみや不安、
今日明日の食べるものや休む場所への困窮や不安、
これから先の働く場所や生き方への絶望や不安、
そういった一人一人異なって抱える問題に、
「直接的な解決策」をもたらすことでないであろうことは事実だし、
そういった一人一人の体験や気持ちを、
今、東京で暮らすわたしがまったく同じに共有できないこともまた事実。


悲しいけれど
それは誰かの身に起こったことであって自分の身に起こったことではないという事実。

今回のことに限らず
今までどれだけの痛みを感じ、喜びを感じ、
学ぶエネルギーや働くエネルギーを傾けてきた、
教科書で学んだような歴史的な出来事、災難も幸福も、
誰かの身に起こったことであって自分の身に起こったことではないという事実。


共感と共有と
疎外と孤独とを
行ったり来たりするこの不安定な感情が
このごろ顕著だ。


だけれども分かっていることは
それは、誰かの身に起こったことであっても、
自分の身に起こっていたかもしれないことであり
自分の身に起こるかもしれないことである
と、
いうこと。


この課題の、短い文章の意味が
ポジティブかネガティブかは分からない。


いい夢もあれば
悪い夢もある。


けれども段々分かってきたことは
夢のような、夢かもしれない、
だから人生は、
想像できないことが起こり続け
自分がそのときどこにいるかも
そのときにどのように感じるのかも
想像できないことがきっとある。


そういう風に、思うこと。


諦観とまでは言わないし、
それは無理なこと、無理な状況は存在するのだけれど、
ある部分でそういう風に思うこと。


少なくとも、今は、今のわたしは、そう思っておくこと。


先人の、
夢のような人生を生き抜くためのひとつの工夫なのかもしれないと思って、
心に留めようと思いながら
黙々と書きました。