昨日は桃の節句でしたので
女性考察をひとつ。
(特に関連性はないですね…)


田舎に暮らしていて、これまでの都会暮らし&核家族暮らしと大きく違ったのは
やっぱり、お年寄りが周りに沢山いるということです。

どこへ行っても…
ジムに行っても、買い物に行っても、犬の散歩に行っても、
そしてもちろん家にいても、
お年寄りがいます。

彼ら彼女らの時間の使い方、お金の使い方、対人関係を横目に見ながら
人生って何だろうなって考えないわけがない。

とりあえず、
生きながらえるという意味では、彼ら彼女は高齢になるまで、ここまで来たわけです。

「残り」をどうするのか。
本人たちも意識しながら生きているようで、
そういうことを口にしたり、
一方で、そういうことをすっかり忘れたかのように、
未来の話をしたりもします。

意識のベクトルにも、
散らせて行くのか、収束させて行くのか、
結構個人差があるなぁと思いながら、
老い、について考えます。

こういう言い方をすると非情なのかもしれないけれど
老いた時、世の中(”現役”世代の家族、というコミュニティも、含んで)に
どのように関わって行くのかという意味でも、
老いの質についても考えます。


ここにいる半年の間に、
一気に、自分の老年にまで思いを飛ばした気がする。

長生きしたとして
例えば70歳、80歳の自分がどういう人間でありたいかということ。

30歳から、一気に意識を飛ばしたことで、
その間を埋めるこれからの時間の使い方を、現実的に感じられるようになったかなぁ。




この話は本題と逸れるのでこの辺に、
オトメゴゴロの話について。


おばあちゃん1:
(いつも顔を出している趣味の会にいる、60歳代の人について)
「あの人、おかしな人なのよ。
 わたしのこと、”おばあちゃん”って呼ぶの!
 ”おばあちゃん、元気で居てくださいね”って言うのよ、おかしな人よね!!(怒)」

おばあちゃん2:
(道端で道路工事のガードをしている人に、”気をつけて頑張ってね”と声をかけたら)
「あの爺さんに、”おばあちゃんも気をつけてね”って言われた。
 自分だって爺さんのくせに!(怒)」
 (注:その男性は仕事内容からしてせいぜい60代だと思われる)


60代からすれば…80代の女性を、「=おばあちゃん(おばあさん)」と呼ぶことは
ごく自然の言動なのかもしれないけれど…


おばあちゃんたちは、他人様に自分のことをおばあちゃんと呼ばれるのを、
あまり良しとしていない風であります。


孫に言われるのとは違うみたい。


確かに、
「おばあちゃん」にはなぜか”年寄り臭さ”が感じられて
いや、実際、お年寄りなのだけれど、
ひとりの人間としての何やらをすっ飛ばして、
一様に扱われる対象として断定されてしまう匂いがあるかもしれない。


ヨーロッパみたいに、「マドモワゼル」or「マダム」という、
一般的に年齢以外の匂いを感じさせない呼び掛けの区別があれば、
もっと便利なんでしょうけれど…

実際、20代くらいから「マダム」と呼ばれるようになるし、
呼び掛け以外の何でもないから、人間としての何やら、は、
呼び掛け言葉にではなく、その後の会話にしか含まれないことになります。
イコール保護の対象としての”年寄り臭さ”とはならないということです。


日本語だと、「奥様」があたるのかもしれないですが、
これはちょっと、結婚している人(旦那様、ご主人様がいる人)という使われ方が
一般的ですよねぇ。


(実際、うちのおばあちゃん(前出のおばあちゃん1)は、
セールスやら町内の人やらが玄関口に来て、
「奥様いらっしゃいますか?」
と声をかけられると、
「わたしですが」
と声を大にして答え、出向きます。
”若奥様”とでも言わない限り、ハハが呼ばれることはありません。。。
ハハも…”若”は不要な奥様年季なんですけれど…)


カタカナ語が日常生活に入り込んでいるとしたら
マダムを浸透させるのが一番の解決策かもしれないですね。
雑誌業界とか(今の40代、50代の男女が読むような?)に活躍してもらわないとですかねぇ。


わたしが「おばあちゃん」になる頃に、
「マダム」と呼ばれるようになってたら、いいなぁ!
なんて。


とにかく、
親族以外のお年寄りに気軽に「おばあちゃん」と声を掛けない方がよろしいですよ!


オトメゴゴロは、人生最後の日まで、きっと健在なのです。