さかさまの私がそこにいた。

森の中にひっそりと佇む湖は、綺麗に光を反射して、海とは違う美しさがそこにあった。
風が吹けば、波紋が広がり、水面が生きているかのように動き足す。
それに映る風景も歪んでいき、そして静かに元に戻る。
一人、私はその湖畔の側で体育座りをして水の中を覗いていた。
雲が太陽を隠したり、風が吹いて水を揺らし、治まったり、荒れたり。
じっと、見ているだけだったけれど、退屈ではなかった。とても、楽しかった。

「……君は、いつもここにいるの?」
「……だれ。私以外に来る人なんて、滅多にいないのに」
「僕はただの迷子だよ。ちょっと道を間違えたみたいで」
「……ここに来る道って言えば、獣道しかないはずだけど」
「あ。やっぱあれ獣道だったんだ。通りで通りにくいと思った」
「……」

ある日、一人の迷子の少年がやってきた。
帽子を被っているせいで、まともに顔を見れたものではないけれど。
その日から、湖畔に座る人が一人増えた。
会話は出会いと別れのみ。「こんにちは」「ばいばい」と、二つだけ。
だけど、二つだけで成立していた。それだけで十分だった。

「こんにちは」
「……こんにちは」
「……ね。今日は一つ聞きたい事があって」
「聞きたい事?」
「そ。名前、聞いて良い? ついつい、いつも居心地良いから聞き忘れちゃって」
「……ないよ。私に名前は無い。だから、勝手につけてもらって構わないよ」

そう言うと、少年は暫く黙り込み、首を傾げた。
どうしてないんだ、とか、色々気になる事があるのだろう。
まあ、ただ単に私の場合、捨て子で名前をつけてくれなくて、拾われても気味悪がられて、森に隔離されたっていう、突拍子もない話なだけなんだけれども。
気味悪がられた理由は分からないし、自分としても偽っていることは一切していないつもりだった。
……今となっても、まだ理由は分からないのだけれど。でも、ある程度の自由がここにある。
だから、今の現状を不幸とも思った事は無いし、寧ろ幸福だと思っている。

「別に無くったって、支障はないもの」
「あるよ。僕が君を呼べないし」
「君、って呼べるじゃない」
「それは君だけに留まらないでしょ。君個人を呼びたいんだ」
「…………意味分かんないし」
「はは、そういうものだよ。名前っていうのは」

彼の笑顔は無邪気そのもので。私は毒気を抜かれた気分になった。
いや、そんな気分は彼といればしょっちゅう感じてしまう。
今更。本当に今更。

「じゃあ、僕がつけていいかな」
「……勝手に、すればいい」
「ミナモ。水面って、書いてミナモ。ずっと湖を見てるから。それに、水は嫌いじゃないでしょ?」
「……ミナモ。みなも、私が、ミナモ。水。水面……ミナモ」
「で、僕はね。コモリ。古い森って書いてコモリ。ね」
「……気が向いたら、呼ぶ」
「それでいいよ。でも、絶対に覚えていてね。僕もずっと覚えてるから」

いつになるかな、僕の名前を呼んでくれるのは。
そう言って笑いながら湖面を見つめる彼に、私はふと微笑みを漏らした。

「きっと、すぐ聞けるとと思うよ」

そう言って、私も彼の隣に並ぶようにして、湖面を見つめる。
そこに映るのはいつも通りの私と、彼。
さかさまになって映る、ミナモと、

「ほら、ミナモにうつる君は綺麗だよ――コモリ」
結局は、元に戻るのがオチだった。
喧嘩して仲直り、なんていうことも、結局で。
転校してまた出会った、というのも、結局で。
とまあ、どっちにしろ、“結局”っていう部分が人生には付き纏う訳で。

「……とかいって、もう少し言葉を選べないのか、お前は」
「だってさ、結局こうやって話してるのも、結局じゃん?」
「仕方ない、みたいな意味に思えるんだけど。仕方なく、何もする間もなく、みたいな」
「まあ、そう言ったらへったくれもないんだけどさ。でも、面白くない?」
「なにが?」
「運命だとか、偶然だとか、必然だとか。そんなもの、結局そうなった結果だ」

だから、そう言ったら元も子もないんだけど。
そう俺が言うと彼はけらけらと笑った。言い方の問題だよねえ、と呟いて。
俺はそれを聞いて、一つ溜息をつき、外を見た。嫌なくらいに晴れ渡った空が広がっている。

「で、俺を読んだのはそういう事を言う為か?」
「いや、わざわざ僕んちまで言う為だけに呼ぶと思う?この僕が?」
「で。その、結局来た友人に何の用なんだ」
「そ。今日、何日?」
「……9月23日」
「で、今日は?」
「……夏休み最終日だ。……なんか言いたい事分かったぞ、嫌でも」
「あ、ならいいや。お願い!」
「嫌だ」

結局、俺達はこうやって休みをことごとく潰していって。
やりすぎと言わんばかりに出かけまくって。
今、なんだかんだで騒いで、笑って。
……たまには、運命でも、偶然でも、必然でも、いいんじゃないか。
あいつが「結局」と言うたびに考える事がある。
……まあ、今更、なんだが。

「宿題手伝って!」
「だが断る」
「おーねーがーいー!」
「……全力を尽くすなら、少しだけ助言してやる」
「やった!ありがと!頑張る頑張る!全力で」

……結局、こうなるのは目に見えていたんだがな。

タイトル全く関係ないです。

詩ができたのでのっけます。


題「パスポート」


それを見たとき

鳥の羽でできた足枷が

からみついて

びくともしないくらい

心を奪われてしまった


離れることを惜しんで

その筆先ひとつひとつを

舐めるようにじっくりと

確かめなければ


親子連れや

愛し合うものや

知ったかぶりの若者や

偉い教授や

遠い街から来た観光客の

行き交う足音にまぎれる


触れることさえもできない

硝子ひとつぶん向こうにある

小さな国は

姿を変えずに

ただじっとしている


椅子に腰かける職員や

忙しない清掃員や

案内をする娘や

後ろで背伸びをしている老人や

遠い国から来た絵画たちの

混み合う緯線でいっぱい


誰かに肩をたたかれても

知らんふりして

入国手続きの支度を

済まさなければ


小さな国の姫のとなり

ふさわしい人はまだいない


足枷は羽ばたいて

彼女は微笑んだ

樹脂の油を重ねて

ふくらんだあかい唇に

そっと触れた

講義あるから行けないかもしれない。
母は困ったみたいに首を傾げた。
嘘を吐いた。講義なんてなかった。

親戚の家に行きたくなかった。でも毎年恒例のように行かなければいけなかった。
親戚の家の前で夏祭りをやっていた。唐揚げとかポテトもちとか昔はよく姉と一緒に買って分けてた。
小学生の時はガラス細工にハマってて、毎年買ってくじ引いて楽しんだ。そこの出店の人と仲良くなった。
それでも飽きがやってきて、ガラス細工屋には関わらなくなった。
姉が一人暮らしで一緒に遊びに行かなくなってからは親戚が苦手になった。
そこの子どもが苦手になった。犬も苦手になった。おばさんもおじさんもみんな苦手になった。
豪華な食事は変わらず好きだった。
嫌いなわけじゃなかった。姉がいなくなってから喋る相手がいなくて暇になっただけだった。
両親は大人同士で会話を弾ませているし、犬は刺身つけねらって吠えてるだけだし、私は膝を抱えて黙々食事するだけだった。
去年は初めて女の子が私によってきた。
口元を汚しながらにへと笑った。可愛かった。
男の子もきた。おもちゃをぶんぶん振り回して私を困らせた。
その一番年上らしい女の子は母と会話していた。私をちらちら見てきた。
話したいんだろうなと思った。でも私から話しかける勇気なんてなかった。
私は黙々食べ続けた。どこの大学行くのとかその本どんなのとかカバーデザインとかしないのとかおじさんが話しかけてきたことだけ覚えていた。
食べたいものだけ食べて早く帰りたいと思った。

学校の食堂でレポートを書いた。データが吹っ飛んで腹が立った。
帰ろうと思った時間のバスに間に合わなくて、結局次のバスを待った。
親戚の家に行くのか文芸学科トークショーに行くのか迷っていた。
言い訳もかねてトークショーを聞きに行きたかった。
同時に親戚の家の夕飯を食べたくてしょうがなかった。でも行って下手な学校生活の話をするより教授たちの話を聞く方がずっと為になると思った。お腹がなった。食べたい。
バスに乗る時間になってメールした。
今どこにいますか。
まだ会社です。
私は迷った末にバスに乗った。
バスから降りると夕焼けの光が焼け石みたいにものすごく熱かった。
アキレス腱あたりがいたいいたいと私にすがってきた。
無駄に足を酷使した。自分の意思で動いてないみたいに私は狭い路地を歩いた。結局元の場所に戻った。
いつもの道を引きずるようになんとか歩き切った。
家の前について携帯を開いた。
家着きました。
10分前のメールだった。
アパートの階段をどくんどくんと心臓の音に合わせて歩いた。鼓動が速くてひるんでるくせに、それでも速く歩いていた。
ドアノブに手を掛けた。
勝った、と思った。
廊下でぜいぜい息を咳き切った。携帯を開くと母から着信が来ていた。
私は何分か躊躇い、やがて掛けた。
宮町ついちゃったんだけど、どうすんの。来るの。
ん、いいや。
食べ物なんにもないけど大丈夫?
もらってきて。
私は大きな息を漏らした。これで本当によかったのかなと思った。
こんな風になるってわかってんならトークショーの方に行けば良かったのに。
あの子どもたちは来年どういう目で私を見るんだろう。
風呂の元栓を開けて、湯船のお湯に手を突っ込んだ。
暖かかった。うれしかった。悲しかった。
お腹が減って自家製のナス漬けをほおばった。しょっぱかった。おいしかった。

寝転がると、みんみん、みん、み。と、鳴いていた蝉の声が急に力なく消えた。
どこかで女の人が、最期の声だね、と誰かに話しかけてる風にそれを聞き届けていたようだった。
体を布団の中に沈めてしばらくすると、ふと違和が舞い降りました。
何かが肌を突いてくるのです。タオルケットがこすれると、かゆみが火花になってちりばめられます。
いやだなあ。
飽きもせず肌をさすってくるのです。ちくちくします。それは刺よりも柔らかで、埃よりも存在感がありました。
体をよじっているとそれがますますエスカレートして、不愉快な圧迫感が足下から腿まで這い上ってきました。
左に顔を向けると、母の足が無造作に転がっていました。
この人はものの五分で眠りの国に飛んでいったのに、私といえば人懐っこいちくちくたちに足を絡めとられて、ただ風船のように揺れるばかりなのです。
なぜ私だけ旅立つことを許されないのでしょうか。ちくちくたちは朗らかな微笑をたたえ、あざ笑うことも悲しむこともなく、足にくるんできます。
消えてくれ。
私は手で払いました。更に何か楽しいことを考えるように努めました。
ニューヨークは二十何度、シンガポールは何十何度……、
世界の天気予報では、妙な訛り帯びた口調のアナウンサーが、BGMに乗せて喋っています。
ちくちくが一匹、ちくちくが二匹、……
地道に数えたら、どのように広がっていくのでしょう。
考えるだけで気が遠くなってしまいます。
すると、頬にかゆみが走りました。

ばちん!!

ちらちら、ちらちら、ちらちら………
全身に纏わり付いていたちくちくたちは、小さな鳴き声を上げて、蜘蛛の子を散らすように逃げ出していきました。

そうして気づいた頃には、足元が浮ついていたのでした。

「おはようございます。午前7時をお知らせします。」

訛り帯びたアナウンスと共に、ほのかな光がまぶたの隙間をつついてきました。