自分の気づきを通して、痛感すること。
それは、自我(思考)と、ハート(こころ)と、カラダ(感覚)に、意識ある状態になるということが、統合されるということ。
自我は思考を司り、カラダは体感覚を、ハートはこころ、すなわち素の自分を司る。
お互いのバランスがとれて、初めて統合される。
僕たちは、何か問題があったときに、カラダをカラダの問題、こころを心の問題、と別々にとらえがちだけれど、そうじゃない。
素の自分が、感じていることは、ハートを通じて、感情という言葉、喜怒哀楽で語られる。
喜怒哀楽をフルに感じ尽くした時には、循環が起こる。
これは、ハートをフルに表現することと同じだ。自分を表現することだ。
自分をフルに感じられるとき、それを外に出すことを我慢しないときに、自分のユニークさが表に現れている。
小さい子たちがそれをやっている。
私たち大人は、自我、思考でそれを遮る。
これは、ダメ、ああしては、ダメ、ひとに迷惑がかかる、人に変と思われる。
こうした思考は、すべて自分の素を、ハートの感覚を遮る。
ハートからの声を聞く耳を、持たなくなる。
我慢をすることは、まさにそう。ハートと、カラダの循環を遮る。
フルに感じられない感情たちは、わだかまり、ストレスとなって、カラダを硬くする。
感じないと、カラダは硬くなっていく。
カラダが固まり、循環が起こらないと、細胞は酸素不足になる。栄養不足になる。排泄ができなくなる。
それが、不調や病気の元になる。
そうして、ガチガチに固めていくことが、私たちの言う、年をとることなのだ。
別に、年をとる必要なんかないんだけれどね。
年をとっていくと、顔のつやとか、しわとか、気にして、サプリをとったりするけれど、そんなものは、ちっとも役に立たない。
なぜなら、ハートが自由でないことが、年をとらせるから。
ハートが自由になって、感情が流れるようになって、カラダが循環するようになったら、カラダのエンジンは、自ずと全開になる。
それが、細胞を若く保ってくれる。つやも弾力も自ずと保たれる。そして、別にそうじゃなくても、気にならなくなる。
輝きは、いつもそこにあるから。
カラダは、何を食べたらいいのか、どの頻度で食べたらいいのかも、教えてくれる。
特に、太陽と地球の栄養をいっぱいに含んだ、フレッシュな野菜たちは細胞を活性化させてくれる。
統合され、循環しているときの人の可能性は、不調や病気を作らせない。それくらいの可能性は、すべての人は持っている。自分がそれを信じて、行動すれば、だけれどね。
行動するのにも、ハートに寄り添って、だけれどね。
このハートを感じるというのが、やっかいだ。
自分が感じていると思っていたものが、実は、ハートからじゃなくて、思考からのものがほとんどだから。
もう信じられない!いっぱい感じてきたのに、ハートからのものじゃなかったなんて!そんな気づきが毎日のようにやってくる。
文化の中で、両親からの影響で、先生たちからの影響で、本や、ネットや、テレビで。
良いということ、悪いということ、それらすべての判断が、思考のおやつとなる。
それからの枠組みから、自由になるのは、めちゃくちゃチャレンジ。
自分が、幼いころから作ってきた枠組みを全部壊さないと、素の自分を感じることができないから。
実際に僕がこうして、自分と向き合っているのは、そういうこと。自分のハートを閉じ込めてしまったから、自分の表現がでてこなくなっちゃった。
それを、思い出すプロセス。小学3年生くらいから、感じることをし直さないと、ハートからの表現を思い出せない(笑
だから、自分のハートが、カラダが何を感じているのか、意識できるようになること。思考の影響と、それから作られた信念を客観的に見て、それは自分ではないと、意識して分かるようになること。
難しいようだけれど、要するに、子供になって、ワクワク、ドキドキ、ワーワー、キャーキャー、ギャーギャー、笑って、泣いて、悲しんで、怒って生きてみろってこと。
それが、自分の可能性を、人生を謳歌できる健康体を、開くカギとなる。
僕がやりたいことは、自分の未知な可能性を開くこと。未知とは、自分であった素の自分を思い出すことに他ならない。その自分で生きること。
そして、可能性をそれぞれの人の中に見て、それを開くお手伝いをする。
自分のハートを全開にして、その自分で生きたら、どんな自分になるだろう。
その好奇心が、自分を動かす。