カラダの声とは何でしょう。


動物は、2つの方向をかぎ分けて動くと思います。


不快なところを避け、快の方向へ進む。


快か、不快か。


危ないところを察知して、そこから遠ざかる。


こういうのも、動物が持つ身体感覚です。


かみ砕くと、やりたいか、やりたくないか、とかそういう感覚です。いたってシンプルです。


それを単純化して、イエス、ノーに分けます。



カラダの感覚がイエスか、ノーか。やるか、やらないか。



筋肉の反応を見てみてもいいでしょう。キネシオロジーで筋肉の反射からイエス、ノーを感じ分ける方法もあります。



カラダの反応がイエスなら、力がみなぎるとか、ほんのちょっと高揚する感覚とか、ワクワクする感覚がやってくるかも知れません。



カラダの反応がノーなら、少しだけ力が抜けて、やる気が抜ける脱力感を感じるかも知れません。



これは微細な感覚なので、このカラダの感覚に、ピントを合わせる練習が必要になります。



そこに、大敵がいます。カラダの感覚と混在してしまうのが、思考です。人は考えてしまいます。



考えると、快か不快かは、分からなくなります。



思考ではなく、いかにカラダの感覚を選べるようになれるのか、は大きなチャレンジです。



例えば、焼き肉が食べたい、と思ったとしましょう。でもカラダの声は、サラダをほしがっている、ということが起こります。



焼き肉が食べたいと思うのは、思考で、カラダは軽いサラダをほしがっている。


逆もまたしかり。


野菜ばかり食べているベジタリアン。


カラダは、実は肉を欲しているということもあります。


思考は野菜がカラダに良いと判断しますが、実は、カラダは肉を必要としている。地に足をつけたがっている。


こんなことも起こりえます。


今の仕事はやめた方がよい、そうカラダの感覚はゴーサインを出しています。



カラダは、そのままその仕事を続けると、ストレスが溜まり、疲れ果てて動けなくなってしまうことを知っています。


でも、思考はそれに逆行します。


生活が成り立たなくなるから、嫌でも今の仕事を続けないといけない。


周りに迷惑がかかるから、やめるわけにはいかない。


私がいないと会社が困る。


などなど、何かと理由をつけて、カラダの感覚を無視するのが思考なのです。


そうして、思考とカラダの感覚のギャップは、ストレスとなります。



将来の不安を考慮するのも、思考です。


後のことを考えないで、今に居続けることは簡単ではありません。人の理性は、未知の将来に対しても、安全と安心を確保していたいですからね。



でも、カラダの感覚は今にしかないので、そのような不安からはサインを出してきません。今、今、今の連続の中で生きています。



もしも、不安を感じたとしたら、どんな自分の考えや、信念が不安にさせたがるのかということに向き合います。



なぜ、自分はそのように不安に反応するのだろう? この原因を突き詰めます。



カラダの感覚に戻ってこれたら、ゆだね、力みを抜いて、呼吸を通します。そうして、カラダの感覚を今に居る状態に戻します。こうして、カラダの声を聞ける状態に戻します。



カラダは、思考とは異なった答えを持っています。



カラダの感覚は、調和する方向へ、統合する方向へ、そしてバランスのよりよくなる方向へといざなっています。



カラダの声を聞くことは、思考の判断を横に置いておいて、カラダが示すイエスを選び続ける、というチャレンジでもあります。



その前に、本当にその反応はカラダからなのか?という疑問もやってきます。



カラダの感覚を聞くには、ある程度自分を客観視できなくてはなりません。中立的な立場で感じないと、イエスとノーが分かりません。



自分の考えた主観で判断し、その考えを自分に押し付けないようにする、と気づいていく必要があります。



毎日、カラダに問うてみるのです。



賛成?反対? イエス?ノー?


そうして、少しずつカラダの声にピントを合わせていけるように、上手くなっていくのです。


私はカラダの声を聞いて、アメリカにやってきました。しかし、未来は白紙です。


この白紙に、どんな色で何を描くのか、まだ何にも決まっていません。


思考で決めた何かをしようとすると、無理やりやろうとして、余計に力みます。だから、今はあえて、思考で判断しないようにしています。ゆだねた状態にいるためです。力むというカラダの反応があるときに、自分はなぜ力んでいるのか、と問います。そのパターンは、根がとっても深いですよ。



こうして、一日一日を過ごして、何が起こるのかを見ています。