脳科学の実験でこんなのがあるそうだ。


2匹のネズミがいて、1匹にはラの音しか聞かせないで育てると、そのネズミは成長するとラの音にだけ反応するようになる。他の音はよく聞こえなくなるらしい。


また、もう一匹にはミの音のみを聞かせたとすると、今度はミの音に反応するネズミができる。


2匹は同じ檻の中に入れたとすれば、物理的には同じ場所に居るが、その2匹は同じ世界に住んでいるといえるのだろうか。


また、猫についての実験がある。


縦ジマ模様しかない箱で育った猫は、縦ジマしか見えなくなるそうだ。足元に棒を置いたら、棒につまずくとのこと。


棒は横の直線だから、横ジマで、縦ジマしか見えない猫には横ジマの棒が見えない。一方、横ジマ模様しかない箱で育った猫は、棒をヒョイっとよけていくそうだ。



本来は、縦、横、斜めなど、いろいろな模様に反応するニューロンが脳にはある。こうした実験では脳が、見ている世界を決めている、ということを示している。



同じ場所に2匹の猫がいても、それぞれの見ている世界は違っている。だから、同じ世界に居ても、違った世界を見ながら住んでいるのだ。


人もそう。


同じ空間に住んでいても、それぞれに違った世界を見て生きている。気遣えない人も、気遣える人もいる。気遣えない人は、自分が気遣えていないことにさえ気づけない。



文化によって、価値観が異なる。



そこに育った人には、その文化的背景で、正しいと信じられていることを正しいと思ったり、間違っていると信じられていることを間違いだと思う。



しかし、例えば日本では常識として正しいことが、外国へ行くと間違いと判断されることがある。



私達は全然違う世界で生きているのだ。



男女であっても、家族でも、親兄弟であっても、恋人でも、我が子でも、私達は異なったものを見ている。



その中でも同じ空間で過ごすことになるということは、やっぱり縁があるのだと思う。



しかし、共通言語がある。


それが、身体感覚だ。



武道での動作は、身体で起こっていることの事実を、主観で曲げないで感じる鍛錬だ。自分の主観で感じる世界ではなく、客観的にみても、そうである感覚を育てる。



自分のひとりよがりではなく、ちゃんと相手と向き合って、相手に伝わる感覚を磨く。



たとえ同じ世界を見ていなくても、共感できるのが身体だ。身体は生命の反応として、世界をつないでくれる。



施術をしても、手が引き出す反応は世界共通だ。



言葉が通じなくても、文化が違っても、関係ない。ちゃんと、共感して感じることができれば、誰にだって反応を起こせるようになる。



文化や言葉の壁を越えて、誰のためのサポートにもなれる。



文化の常識や、思考ではなく、身体感覚こそが、人と人、人と世界を繋ぐ鍵なのだと思う。



しかしながら、身体感覚を自覚すればするほど、身体が感じていることと、自分が思考して感じることを判断していることとのギャップに驚く。



私は、私自身のことを全然わかっていないのではないだろうか、という疑問さえ湧いてくる。



言い換えると、未知の可能性がまだまだ眠っている。





今はまだ、感覚を、純粋にその感覚として感じ、動作に結びつけることができない自分がいる。



だから、普段なるべく価値判断せず、
事実を事実としてみる、ということを心がけていきたいと思うのだ。