今日の自分は、朝起きてみたら居た、というのが本当かも知れない。


昨日の夜寝て、今日の朝目覚める。


起きた時に、不思議に思うときがある。まだ、私が続いているのか、と。


寝てる間、自分はどこに居て、何をしていたのか覚えてない。


目が覚めたら、「私」が居る。でもこの「私」は昨日とは違う「私」。


今日は、昨日の続きでは無いかも知れないと、本気で思っている自分がどこかいる。


今日は、今日の自由さでいいと思う。


昨日までの自分は、昨日で終わっているのだから。


今日は、昨日から連続しているように見えるけれど、そんな保証はどこにもない。実は本当に違う世界にいるのかもしれない。


しかし、記憶もあるので、それに従った行動をしている自分もいる。でも自分の記憶はあいまいで、当てにならないものだと思う。


人は過去に縛られる生き物だと思う。


今日は別に昨日と違っても全然良いわけなのだけれど、そうはしようとしない。


過去の感情。過去のあいまいな記憶に影響される。



過去に起こったことを、自分のフィルターでわざわざ色づけして記憶し、私はこうだったから、とか、誰々はどうだった、世の中はこうだから、とか意味づけしたがる。


そうしたら、過去の自分をもう一度今日も生きることになるのではないだろうか、とふと思う。


だから、まだ見ぬ未来への開いた可能性を見たいと思う時には、過去を手放す必要があるのだと思う。


脳は、自分の信じる定義に従って、自分を見せていると思うからだ。


私は「今ここにいるのであって、過去の産物ではない」という自分への定義が、新しい風を運んでくる。


今日はどんな自分を見ることができるだろうと、好奇心と共に過ごした方が、ワクワクする。


今日はどんな気づきや新しい変化が自分にやってくるのだろう?


私は既に未来の可能性にオープンで、その変化をみたくてうずうずしているのです、と。


そういう思いで、続いていく今日を迎えたら、きっと違った新しい展開が待っているに違いない。