まず、聞く姿勢ありき。
そこに、我というエゴを入らせない。
私が良くしてあげる、何とかしてあげる、というのもエゴ。私が治してあげたい、というのもエゴ。
生命の視点から見ると、「私が」というのは本当にちっぽけなものだから。
私よりも、受け手のカラダの奥にある生命の流れが、何を伝えてくるのかを聞く。
本当に聞ける人は、我を入らせない。
聞き入り、生命の流れに寄り添いながら、それが指し示すことをする。
自分という小さな意識よりも、生命という大きな意識にピントを合わせ続ける。
生命は、自分よりも大きな意識、そして受け手の自意識よりも、大きな意識。
命の意識は、受け手に安心感を与える。
命の意識がある手は、受け手に空間を与える。
命は、カラダという枠に限定せず、心という枠にも限定しない、もっと大きなもの。
源であり、治癒と活力が湧き出る泉。
その源にアクセスする姿勢が、施術者としての心得。
治癒という奇跡が起こるのも、体や心の枠を超えたところにある生命が共感したからこそ。
何も期待することなく、でも、可能性に心をオープンにして。
触れているときに、その瞬間瞬間に居つづける。
施術者の心得。
そこに、我というエゴを入らせない。
私が良くしてあげる、何とかしてあげる、というのもエゴ。私が治してあげたい、というのもエゴ。
生命の視点から見ると、「私が」というのは本当にちっぽけなものだから。
私よりも、受け手のカラダの奥にある生命の流れが、何を伝えてくるのかを聞く。
本当に聞ける人は、我を入らせない。
聞き入り、生命の流れに寄り添いながら、それが指し示すことをする。
自分という小さな意識よりも、生命という大きな意識にピントを合わせ続ける。
生命は、自分よりも大きな意識、そして受け手の自意識よりも、大きな意識。
命の意識は、受け手に安心感を与える。
命の意識がある手は、受け手に空間を与える。
命は、カラダという枠に限定せず、心という枠にも限定しない、もっと大きなもの。
源であり、治癒と活力が湧き出る泉。
その源にアクセスする姿勢が、施術者としての心得。
治癒という奇跡が起こるのも、体や心の枠を超えたところにある生命が共感したからこそ。
何も期待することなく、でも、可能性に心をオープンにして。
触れているときに、その瞬間瞬間に居つづける。
施術者の心得。
