人は矛盾の中に生きていて、それでいい。だからこそ気づくことがある。
カラダの感覚を育てていると、そう感じます。
主観的で、同時に客観的で、またそれを同時に体得できたときに、はじめて成し得る動作があるということ。
一見相反する性質のように見えますが、それが合わさると、人の可能性を最大限に引き出してくれるのです。
自らを客観的に透明に把握できるということは、何が自分に起こっているのかを力まずに、観察することができるということです。
これは、カラダの動作でもそうですし、心の反応もまたしかり。
主観で感じていることを、客観的に気づいていて眺めることができる。
これは、禅になった状態だと思います。
矛盾して、相反するように見えることが、実は両方とも大切なピースと成っている。
両端にある性質のものが、この現実では合わさることはないけれど、合わさっているように感じることが、一つの境地になっている。
私が施術をするときも、このようなことが起こっています。
命に共感して手を置くと、受け手との境界線がなくなります。また同時に施術側の私は、はっきりとした境界線を感じ続けています。
相手に境界線を感じさせないので、相手の無意識は私に対して開くことができます。そこで命が反応し、治癒が起こります。
しかし、同時に手を置いている実際の肉体と、精神はしっかりと境界線を保ち続けます。
この相反する性質を、両方同時に体現したときに、最大限治癒の力を受け手から引き出すことが可能となります。
受け手の意識と、無意識がオープンなところまで、カラダを開くことができるということです。
これは、西洋の施術家には理解できない概念でしょう。アドバンスのトレーニングで学んだロルフィングのインストラクター達も、共感で境界線が完全になくなるのはいけないこと、というように理解して教えていました。
あれか、これかの考えになるのです。
何か違うぞ、それは。。と私は違和感を感じました。外人には禅を理解することは簡単ではありません。そんな時には、日本人で良かった~って思います。
あれも、これもの概念が禅だからです。
山で自分の体感覚と遊びながら、禅問答をしながら開発しています。
自然は、そこにありの姿のままで存在しています。その自然の姿を鏡にして、自分を観るといろいろ気づかせてくれます。
無為自然と言う老子の言葉がありますが、
無為は「なんら作為をしないこと」という意味で、つまり「無為自然」は「なんら作為をせず、あるがままの状態」を言うそうです。
これを動きの中でやることを目指しています。
「なにかをしようとわざわざ考えずとも、天地はすべてのことを為している」と言いますが、それは自然のことです。
人は、人としての自意識あります。作為なく、それでもすることできること、が人が意志を持つ生き物であり、同時に生命であることなのだと思います。
作為はないけれど、カラダを感じながら動かすことができる。カラダでする、禅問答です。完全に脱力できれば、マスターの域です。一見相反する性質が、同時に存在する境地を目指しています。
私がやっているのは技術ではなく、「道」です。
これまでに、たくさん技術や知識は学びましたが、技術や知識は学んでも学んでも、きりがありません。
しかし、本質の「道」を体得すれば、すべての鍵が開けられる、マスターキーが手に入ります。
私の探求の中で、技術を「道」に帰す時期にやってきているように感じます。
ここが体現できれば、世界に教えに行くことができると思っています。日本人として、是非とも体得したいものです。
花っていいですよね、やさしい、やわらかい気持ちにさせてくれます。
良い絵になりそうだ、と花に足止めされながら、パシャパシャ撮りながら、歩いています。写真撮るの、好きなのですよね。




