今日は山手のイギリス館で、ピアノとバイオリン、そしてチェロの3人の若手奏者による、ピアノ三重奏を聴いてきました。3人とも、すばらしい個性の持ち主でした。


今日の演奏は、ベートーベン:チェロソナタ 第1番 Op.5-1。シューベルト:ヴァイオリンとピアノのための幻想曲 D.934。そして、ベートーベン:ピアノ三重奏曲 第7番 Op.97。


最前列で、私と演奏者達だけになったような錯覚。狭い空間の生演奏は、聞いていて格別に贅沢に気分に浸れます。時間を忘れる楽しさがあります。


絶え間なく変わっていくメロディーは、今の連続です。「今」の音しか聴けないといいますか。奏でられた瞬間の音が生き物のようです。


私は音楽は素人なので、クラシックの曲を聴いても知らない曲ばかりなのですが、そっちの方が次に何の音が出てくるか予想ができなくて楽しいです。


私も一つ楽器ができたら、自分を音に乗せて表現したいなあと、いつも思います。


楽器が手の延長として動いてくるには、長い歳月と厳しい鍛錬が要ります。楽器を操れるということは、すごいことなのです。


音は演奏者から出てくる表現を、倍々にして届けてくれるので、音以外のものも伝わってきます。


その人の哲学のようなもの。芯の強さ。優しさや繊細さ、シャイなところ。大胆さや、勢い。カラダの状態など(これは職業病か)(笑 


今日は男性三人だったので、男性のダイナミックさがありました。3人の音が合わさって高みに上がって、それがうわーっと押し寄せてくる様は感動でした。


聴き方にも2通りあります。一つは、自分が音を聴きに行くこと。もう一つは、音が自分のカラダに届いて、音がカラダを響かせるのを受け取り続けること。


森の中で鳥のさえずりを聞くときには、耳を立てるような聴き方をしますよね。これが自分から聴きにいくとき。演奏者のように、手に汗を握ったように入り込みます。


もう一つは、ただ音がカラダに届くまで待って、カラダに染み渡るのを待って、音がカラダを動かしてくれるのを楽しむ。音がカラダに響くと、勝手にカラダはノリノリに動き出します。


赤ちゃんは音楽を聴くと、自然にカラダが動き出しますよね。ちゃんと届いているのですよね、音がカラダに。


クラシックの演奏を、ライブで歌を聞くときのように、カラダが動くがままに聴きてみたらおもしろい企画になると思います。


音楽家が演奏するカラダの動きを見ていると、糸を通すような繊細な音を、よく筋肉の動きが大きく混ざった状態でも出せるなあ、と感心します。


筋肉の動きが大きいほど、カラダには雑音が大きくなります。


結構な割合で筋肉が使われてカラダが動いていたとしても、繊細な音が出せる。これは、その人の感性がいかに細やかか、ということです。


その感性と、月日を重ねたすごい練習量があるのだろうと想像します。


人間のカラダの構造から言うと、音は骨に響かせた方が届くのです。筋肉が強張っていると、そこが音の響きを弱めてしまいます。そして、筋肉が強張っているままで楽器を弾くと、動きにブレがでるので、音が繊細さを失ってしまうのです。


だから、筋肉ではなく、骨か、筋膜の感覚を鍛えることです。


骨を使えると、関節に自由度が増します。力を抜いた状態で、骨の重味を感じられるようになると、骨の重さが楽器に伝わるのです。小さな力で、響く音を出すことができるようになります。


もしくは筋膜の感覚です。筋肉ではなく、それを包んでいる膜が動く。筋膜の張力の感覚がわかれば、筋膜を感じてカラダを動かすことも可能です。


アプローチの仕方は違えど、筋膜の感覚が分かれば骨の感覚も分かるし、骨の感覚がわかれば筋膜の感覚も分かります。私もこの感覚を育てています。


どちらにしても、筋肉には静かになってもらわないといけません。


そうなるには、筋肉を休め、骨や筋膜の感覚を育てることが大切なのですが、感覚が育ってきたら、繊細さをもっともっと繊細に使うことができる、ということです。


より「自分のオリジナルの音」がでてくることに近づいていくと思います。


私のところに施術を受けに、ピアノ、バイオリン、チェロ、トランペットなど、様々な楽器を演奏される奏者の方達が訪れてくださいます。


重力にバランスのとれた、脱力した楽な感覚を知ってもらうことで、その方の表現の幅が広がってくれたらうれしいなあと思います。


音に限らず、人生に幅がでてくれたらもっとうれしいですね。