2021年1月20日 ガンマナイフ治療を受けるための入院のはずでした | 母が肺がんで旅立ちました。

母が肺がんで旅立ちました。

タイトル通りのできごとです。
肺腺がんのステージⅢbと判明してから約1年3か月後、2021年6月10日に旅立ちました。
大好きな母がいなくなり、寂しくて仕方ない自分の気持ちの整理として、
判明してからのことを振り返ってブログにつづらせてください。

昨年末に判明した、肺腺がんの脳転移。

その治療のため、ガンマナイフ治療を受けるべく東京の病院へ2泊3日の入院です。

私の職場からも近いので、この日は入院手続き後出社することにしていました。

 

今回入院する病院は個室のみ。

今はコロナ対策のため、病棟への付き添いは禁止。

昨年から母は何度も入退院をしてきましたが、この入院だけは数日前から「イヤだな。寂しいな」と何度も口にしていました。

「個室なんだし、なんとか付き添いで一緒に泊まれないの?」と聞かれていたので、事前に問い合わせもしましたが、コロナ感染予防のため絶対にダメと。

 

入院がイヤというのではなく、個室なのがイヤだと言っていました。

母は6人兄弟で、我が家は今となっては3人家族ですがもとは5人家族で。

いつもそばに誰かがいる気配を感じて生きてきました。

今までの入院はすべて大部屋だったので、カーテンで仕切られてはいるものの、そばに誰かがいる気配はあったから寂しくなかったのだと。

個室は寂しいから気が重い…と。

なんとか一緒にいられないかと、事前に自前でPCR検査をして陰性証明を持っていくのでもダメか病院に聞きましたが、やはりNGでした。

コロナさえなければ、個室なので本来は付き添いも自由。泊まり込みも自由だと聞き、ただただコロナが憎かったです。

 

病院へ着くと、ガンマナイフ治療をしてくださる先生の問診と治療説明がありました。

紹介元の主治医からも聞いていた内容と同じく、脳に転移したがんを放置すると認知症のような症状が大きくなる。なので今のうちに治療をしましょう、と。

先生は「今治療を受けておけば、今の転移しているがんは消えるから大丈夫ですよ」と安心させてくれました。

それを聞いて、母も母も認知症になるのはイヤだから、と承知しました。

治療自体は痛いものではないし、明後日朝には退院できますからね、という言葉にも安心して私たちは「よろしくお願いします」と部屋を出ました。

 

その後は母がPCR検査を受け、陰性が証明され次第入院して、この日はもう1度脳MRI検査をして、翌日ガンマナイフ治療を受けることになっていました。

PCR検査の結果が出るまで少し待ちましたが、その間は2人で待合室でいつものように他愛無い話を。

結果はもちろん陰性。

病棟に移動するので、母とはここで1日お別れです。

 

「また明後日迎えにくるからね。毎日メールもするね」

エレベーターに乗る母を見送って、私は病院を後にしました。

 

ちょうどお昼ぐらいになっていたので、出社前に有楽町でランチ。

食事が終わって、神田の職場に出社しました。

出社してものの15分くらいだったと思います。

母から私の携帯へ電話がきました。

 

「まだ帰っちゃダメだったみたい。病院に戻ってきて」

 

そんなはずはありません。

書類はすべて提出してきましたし、私が何かすることはありません。

悪い予感がしました。

 

職場の先輩や同僚に事情を話し、急いでタクシーで病院へ戻りました。

 

病院へ着くと、先ほど先生から説明を受けた部屋に私だけが通されました。

中には先生が1人で待っていました。

「告知しなければなりません」

と言われました。

 

ガンマナイフ治療前の脳MRI検査で、脳に転移したがんの数が予想以上に多いことが解ったそうです。

20か所以上。

先生はMRI画像を見せ、転移した箇所を何か所も示しながら説明してくれました。

でも正直、私にはどこがそうなのか解りません。

小さな転移がたくさんありすぎて、私にはすべては見えませんでした。

 

転移している箇所が多くて、ガンマナイフでは治療できないと言われました。

脳全体に放射線を当てる、全脳照射をするしかないと。

全脳照射はガンマナイフと違い、脳全体に放射線を当てるため、どうしても本来なら放射線を当てる必要のない場所にも当てざるを得ない。

でも、今全脳照射をしなければ、あっという間に認知症のような症状がでる。

自分のことが自分で何もできなくなっていく…と。

 

「この事実を本人に告知しなければならないけれど、お母さんは鬱になってはいませんか?」

突然の言葉でした。

この時の私はそんなこと、思いもよらなかったのです。

 

先生が続けました。

「ガンマナイフ治療をすれば大丈夫、と言ったときのお母さんの表情が、ふわっと明るくなったのです。部屋に入ってきたときにはとても沈んだ表情をしていて、ようやく安心できた様子だったように感じました」

「お母さんは恐らく鬱になりかけていると思います」

そこまで言われ、ふと最近の食欲のなさに合点がいきました。

 

抗がん剤治療をやめたのでもう副作用はないはずなのに、年末あたりから思うように食事ができなくなっている。

気付けば脳転移の話がでた頃からじゃなかっただろうか。

これは、肺腺がんのせいや薬のせいではなく、精神的なことだったのかもしれない。

 

先生に母の食事の話をしました。

やはり、鬱になりかけているだろうということでした。

それでも、ガンマナイフ治療はできないことと、その理由を本人に告知しなければなりません。

 

「告知していいですか?」

先生の問いに、私は「母に隠すことはしません。肺腺がんが解ってから、ずっと2人で話を聞いてきました。今日も同じです」と、答えました。

 

そして母が呼ばれ、部屋に入ってきました。

母はまだ病院に来たときの服のままでした。

それが、入院できない、ガンマナイフ治療を受けられない、その事実を私に突き付けているように感じました。

 

母が私の隣に座り、先ほど先生から受けた説明を、もう1度聞きました。

先生が説明する間、母の顔を見ることはできませんでした。

 

全脳照射の説明になったとき、その治療を受けたらどうなるのか、という話になりました。

 

今まで10覚えていられたことが、8~9しか覚えていられなくなる。

 

その説明を聞いて、少しほっとしました。

母もほっとしたように感じました。

ようやく2人で顔を見合わせ、8割覚えていられるなら、普通の老化と変わらないよね!と笑いあえました。

「もともとお互いうっかりものだしね~!」

 

このとき母が

「今受けておけば死ぬまで大丈夫ですかね?」

みたいなことを先生に聞きました。

先生は「そうですね、大丈夫だと思います」と言った記憶があります。

このときには思いもしませんでしたが、母の「死ぬまで」に残されていた時間は、もしかしたらもう少ないという見立てだったのかもしれません。

そうでなければ「大丈夫」なんて先生は言えなかっただろうな…と、今思い返すと思うのです。

 

結局この日は入院できないため、荷解きもすることもなく、そのまま2人で自宅に帰りました。

家に帰って「なんか疲れたね」って2人で苦笑いをした気がします。

でも苦笑いでも、笑顔。

どんなときでも笑顔。

次にやることははっきりしているのだし。

よし!全脳照射しようじゃないか!と。

急いで主治医の先生に連絡を入れました。1月25日に予約をとって。

今日の先生からも連絡が入っているようでした。

 

とりあえず荷解きをして、夕飯の支度。

この頃あたりには、私が食事の支度をすることがほとんどになってきていました。

この日はカレー。

 

ガンマナイフ治療が受けられなかったことを、旦那さんの闘病を支えている友人に送ったメールでのやりとりを読み返したら「今日は私が作ったカレー、少しだけ食べられた!食べてもうえって吐きそうにならなかった!」って母の様子を嬉しそうに送っていました。

 

母は男前な人なので、やること決まって、今の状況もはっきりして、少しだけすっきりする気持ちもあったのかもしれません。

もちろんショックはあったと思いますが。

 

この日の母の治療管理ノート。

「多くのガンが見つかり断念」とあるけど、その3日後には「少し多く食べれる気がする」と。

そう書いてある日の夕飯は豚汁と焼き餃子、冷奴、筍のおかか煮。

母はごはんも少し食べてるはず(お米大好きで、食べないことはめったにありません)。

豚汁とごはん以外は、やっぱり私と1人前を半分こだったみたいですが、少し気持ちが落ち着けて食べられたのかなぁと。

 

年明けごろから、母の手が震えるようになってきていました。

何もしていないときは震えないけれど、箸を使うときや字を書くときに少し震えがでます。

治療管理ノートも1月23日や25日の日付の文字に、震えが少し表れています。

それでもまだこの頃は、そこまでひどい震えではなかったので「アル中か!早く酒を飲まなくては!」と2人で笑い飛ばしていました(笑)。