【六車奈々、会心の一撃!  〜働くお母さん~】 


「お待たせ致しました」

真っ先に注文したスパークリングが運ばれてきた。『こぼれスパークリング』と書かれていたそれは、日本酒でいう『もっきり』さながら、升の中にシャンパングラスが立っている。  



今日は、一人きりの外食だ。
娘が生まれてからの4年間、思い返しても一人でゆっくり夕食を満喫した記憶など一度もない。
私は思わず笑みが溢れた。



「それでは失礼します」
店員さんが、グラスにスパークリングを注ぎはじめる。
「ゆっくりね、ゆっくりね!」
スパークリングが泡立ち過ぎないよう心の中で応援しながら、グラスを見つめる。スパークリングは、ついにグラスの口ギリギリまで注がれた。

ここからだ。
いよいよ升の中に注がれていく。
シュワシュワシュワ〜。
グラスから溢れたスパークリングは、優しく上品に升の中へと流れていった。




今日の仕事は、非常に実りあるものだった。
次の展開へと広がっていくだろう。
充実感と疲労感の中、満員電車に揺られて戻ってくる途中、主人に帰宅時間を連絡した。 

てっきり家にいるだろうと思った主人と娘は、まだ外にいた。主人の仕事が遅くなったため、これからようやく食事だというのだ。

そうか。
ということは、このまま帰宅しても、二人はまだ帰っていない。かといって、今から電車を乗り換えて二人に合流する体力など残っていない。今日は、講演で2時間近く立ちっぱなしだったのだ。さらに今も、満員電車に揺られて立ちっぱなしである。私はすっかり疲れ切っていた。

そうだ!!!
どうせ帰宅しても一人なら、何か食べて帰ろう!
お酒を飲んで帰りたい!

主人にLINEで伝えると、
『はい。食べ終わったら、車でそちらに向かうよ。』
と返ってきた。
 

きゃーっ!やったー!!!
私だけの時間だ〜っ!
しかも、お迎えにも来てもらえる!
なんてステキな旦那さま!
 



娘が生まれて4年。
この上無い幸せと一緒にやってきたのは、プライベート時間の返上だった。独身の頃は、あんなにも自分のためだけに使えた時間が、今では皆無。ましてや「夕食を一人でのんびり」なんてこと、あるはずもない。

かといって、それが苦痛ではなかった。なぜなら娘というかけがえのない宝物を授かったからだ。しかもこの忙しさは今だけであり、一生続くわけではない。私は、子育てと仕事で多忙な毎日を心から幸せだと思い、感謝していた。

しかしだ。
予定外に、一人で外食できるチャンスが到来したとなれば、話は違ってくる。
こんな大チャンス、満喫するに決まってるわよぉ〜!!!

私はすぐさま駅ビルに上がった。
他の店に移動している時間など勿体無い。
一秒でも早く、お酒を飲むのだ!





「きゃーっ!ステキーッ!」 

グラスから溢れて升の中にたっぷり注がれたスパークリングを見て、私は思わず拍手をした。なんなら「ブラボーッ!」とスタンディングオベーションをしたいほどだった。

店員さんは、私のオーバーリアクションに照れながら、たっぷりと注いでくれた。
二杯分ものスパークリングが入って580円。一杯が380円に設定されていることを考えると、圧倒的にお得である。
私は頬を緩ませながら、表面張力でこんもりとしたグラスに口をつけた。  



あぁぁぁ。。。
美味しい。。。



良い仕事をした後のお酒は、なんて美味しいのだ。しかも、久々の一人だ!
580円のこぼれスパークリングは、独身のとき飲んでいたクリュッグよりも美味しかった。

続いて、オードブルの盛り合わせが運ばれてきた。生ハムやチーズなど、5品ほどが皿に盛られている。

いやぁん。
お酒が進むわぁ。
サイコーやんかぁ!


よっしゃ。
こうなったら、普段夕食では滅多に食べない炭水化物まで食べちゃおうかしら。

ふむふむ。
手打ちパスタで作ったラザニアですと?
素晴らしいじゃ、あ〜りませんか。
私は気持ち悪いくらいの笑顔で店員さんを呼び止め、ラザニアをオーダーした。




『せりちゃんも、お父さんと美味しいゴハン食べてるかな。』
ふと娘に会いたくなり、スマホの写真を見ながらスパークリングを飲む。
すると、スマホの画面にLINEのお知らせが来た。




『あと5分ほどで着きます』




主人からだった。

 



えぇーっ!?
もう着くの?
早過ぎない?
まだラザニアだって来てないのに。
私はすぐさまLINEを返した。



『こちらは、食べ始めたところ。待たせたら悪いので、直接帰ってくれてよいよー。急いで食べてバスで帰る!ごめんねー。』


待たせるのも悪いし、
待たれるのも気が急くし、
お互いにとってベストな選択だ。
よし。早めに食べて、急いで帰ろう!


すると、主人から返ってきたのは



『せりさん、車の中で歌を歌ってお母さんを待ってるって。』



えぇっ?!
待ってるの?
しかも車の中で?
 
おいーっ!
そこは、何とか説得して帰ってくれよーっ!




「使えんやっちゃ!」
一瞬でも思ってしまった。
ついさきほどは、「ステキーっ!」と感謝したはずの旦那さまなのに、人間とは身勝手なものである。
「お待たせ致しました。」
こんな最中、ラザニアが運ばれてきた。 




『あぁぁぁぁぁぁぁ神様!私に時間をくださいーっ!』



私は心の中で叫んだ。
今ほど、ドラえもんの時間貯金箱を欲したことはない。





・・・・・仕方がない。
店を出よう。
私は残ったスパークリングを飲み干し、
オードブルの盛り合わせを胃袋へとかき込み、
口の中がベロベロにめくれながら、熱々のラザニアを突っ込んだ。


急いでお支払いをして、駐車場に走る。
はぁ、はぁ、はぁ、はぁ。
食後のダッシュで、横っ腹がイタイ。
結局、私が一人を満喫できた時間は・・・・・・ ・・・・・ 15分!



「ママーッ!おかえりーっ!」


車に到着すると、とびきりの笑顔で娘が迎えてくれた。お母さんに会えて、嬉しいのが伝わる。
全ての疲れが、吹き飛んでしまう。


「せりちゃん、ただいまーっ!会いたかったよーっ!」




働くお母さんに、プライベートなどない。
しかし私にとって、それはやっぱり幸せなことなのである。





note:『六車奈々、会心の一撃!』